伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

今日のはてブ(2016/09/17~2016/09/23)

大変ご無沙汰をしている次第であります。
ええ、なんといいますか申し開きのしようの無いレベルでご無沙汰をしておりました。
こんなブログでもチョコチョコ見に来ていただいているというのが心苦しいレベルであります。

幸い色々あり少しく閑あり、多少は更新なんぞをしていこうなどと。

f:id:yohichidate:20141228094720p:plain

歴史は繰り返す。当事者には悲劇、傍観者からは喜劇として――コンピュータシステムの歴史

IoTの台頭で「エッジコンピューティング」に脚光、クラウドと並び立つ存在に~IDC調査 - クラウド Watch

ホストコンピュータからクラサバになって、クラウドが出てきてこいつ、と。ぶっちゃけ歴史は繰り返すとしか。

2016/09/21 11:04

IT業界というのは歴史が浅いせいなのか、発祥がアメリカというある意味歴史が現在進行している国だったからなのかは判然としないのですが、とかく歴史というものを意識しない業界であり産業と常々思うわけです。こと、日本においては業界のトップランナーからボトムに至るまで、人文科学や社会科学というものに対する知識の浅さが日々露呈しているのは読者諸氏におかれましてもよくよくご存知のことと思います。

私自身、商業や経営学、金融というどちらかと言えば人文科学については浅い世界に身を置いていて、その後IT屋に転じたってのもあって、それほど威張れたことは言えないけどもそれでも目に余る物言いや言説がまかり通る現状は苦々しいことこの上ない、と愚痴を零したくなるわけでありまして。

で、エッジコンピューティングやフォグコンピューティングの話です。フォグコンピューティングについてはこちらの記事が結構面白い(特に記事後半ですね)です。

【Infostand海外ITトピックス】IT業界に大規模人員削減? クラウド化が加速も - クラウド Watch

コンピュータとりわけビジネスにおけるコンピュータというのは、集中化と分散化を繰り返すという「歴史」を辿っています。
古くはホストコンピュータとターミナルの組み合わせ(更に遡ればパンチカードにもなるけど、そもそも集中化という意味では同じなので省略)だったのが、コンピュータの価格が下がるに連れて次第に分散化されるようになります。最初はごくごく少数のホストコンピュータを様々な利用者が共有していたのが、次第に会社単位で1台、事業場単位で1台、部署で1台のようにバラ撒かれていきます。
そして、Unixを始めとしたダウンサイジングを可能とするプラットフォームによって、無数のサーバが点在するようになるわけです。
これには伏線として情報量とネットワークの技術的限界というものもありますが、この時代においてはどちらかと言えばコンピュータそのものの低価格化・小型化という方が勢いがありました。

一方で高性能化の恩恵はターミナルサイドにも与えられるわけです。ターミナルという「無能」な器械は次第に「クライアントコンピュータ」となり、すべての処理をサーバで行う必要性が減っていきます。ここに「クライアント-サーバ」の関係性を持ったコンピュータシステム、俗にクラサバなどと言われる仕組みが芽生えていきます。

このクラサバの猖獗によってホストコンピュータのような集中化モデルは消え去る、そんな風に言われた時代もありました。ホストコンピュータ冬の時代なんてことは古い人ならご存知かもしれません。

しかしながら、思いにもよらぬ「制約」がこのクラサバを襲います。カネとヒトの問題です。経営の中で俗に「運営」と呼ばれるものには大きく3つの要素があります。純粋な業務を動かすための「オペレーション」、日々の銭勘定をする「アカウンティング」(ファイナンスではないことに注意)、そして業務を動かすためのフォースマルチプライヤーにして大前提となる「ロジスティクス」(単なるトランスポートでは無い)であります。いつかどこかでこの観点(オペレーション・アカウンティング・ロジスティクスの三要素と企業の興亡の関係性)を論じてみたいところでありますが、今日は少し措いておきましょう。
クラサバの仕組みにはこれら全てに悪影響を及ぼす要素が少なからずあります。多くのサーバと膨大な数のクライアント(部署に1台という時代から次第に1人に1台と増えていきました)は、維持管理するための「オペレーション」に負荷をかけ、「アカウンティング」にはコストに悪影響を及ぼし、膨大な数のコンピュータたちを繰り回すための「ロジスティクス」を圧迫していきます。
多くの企業では、極端なまでの標準化によって乗り切ろうとしますがこれには限界があります。

殺伐とした企業現場に救世主として現れたのが「仮想化」技術でした。この言葉の翻訳のクソっぷりについてはいくつも言いたいことがあるのですが、要するにやろうとしていることは集中化の復活です。多くのサーバを「仮想化」によって集約し、膨大なクライアントをWebや「仮想マシン」によって管理にまつわる「オペレーション」「アカウンティング」「ロジスティクス」全てを軽くする。仮想化技術――要するにクラウド・コンピューティングと呼ばれるものが実現しようとしていることはそういうことです。

この過程の中で、クライアントコンピュータは再び端末へ回帰する。そんな風にまで一時期言われていました。

しかしこの流れにも限界が訪れました。今度はIoTという概念がきっかけになります。

多くのファンクションにセンサーを設けてデータを取得するという動きは、それほど新しい話ではありません。実のところ、時期としては「クラサバ」の動きよりも少し前くらいから動いていました。最初は致命的に影響が大きい箇所に設けて、大トラブルを避けるために。コストが下がるに連れて徐々に影響が小さいところにまで及びます。
これらのセンサーの情報を収集する上で、最初は単独の機械との単純な結合だったのが、次第に複数のファンクションを結合させてより大きな情報を取ろうという動きになっていきます。その究極のひとつがビッグデータと呼ばれる大規模情報収集/分析のモデルになります。
これらの分析はもはや人間がモデルを考えることすら不可能な規模になります。機械にやらせてしまえばいいのです。ここ数年、人工知能の進化が著しくなってきたことの背景にはこれらの影響があるわけです(もちろん、それまでも地味に基礎研究は進んでいたわけですが、一気に進歩するには何某かのトリガが無ければならないわけで、それがまさにビッグデータだったということです)。

さて、これだけ書く分には集中型コンピューティングで何も問題が無いように見えます。しかしここにネットワークという制約が出てきます。
かつてもそうでしたが、コンピュータ技術が進歩するに連れて取り扱う情報は幾何級数的に増えます。しかし、それらの伝送路には物理的限界があるわけです。そして物理的限界を超えるような技術が生まれてもコスト的な限界も当然に発生します。
再び経営の三要素「オペレーション」「アカウンティング」「ロジスティクス」が制約となる時代となったわけです。

恐らく――これは予言と取ってもらっても構いませんが――2020年~2030年にかけて、再び分散型コンピューティングヘゲモニーを取る時代が来るでしょう。もちろん、そこでは従来集中型コンピューティングで扱ってきたような技術は必要となるわけですが、極力小さなネットワーク内に情報を留めて、真に必要な情報だけをさらに大規模なコンピュータに投げるようなモデルが訪れるでしょう。上の記事にあるエッジコンピューティングやフォグコンピューティングはまさにそれです。

AWSなどのパブリッククラウドサービスが廃れるということは無いでしょうが、そこに全てを投げれば悩み無用という気楽なソリューションは恐らくここ数年で消えてなくなると、予言しておきましょう。その過程で気楽なプレーヤーは我々に喜劇を提供することでしょう。

歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。(カール・マルクス

植民地における宗主国民の振る舞いは――想像に難くない

【関西の議論】ウインカーを出さない「岡山の不思議」 自己都合のルールがまかり通る!交通マナー全国最悪の実態(1/5ページ) - 産経WEST

県民性だけを議論するよりも、岡山県(というか県南)の特殊性を踏まえてキッチリ交通取締りをやるべきでしょう。

2016/09/23 16:05

産経新聞は色々とアレな面やツッコミどころが満載だったりするのですが、一方関西・西日本のローカルネタは意外と読ませる記事があったりします。これもそのひとつ(ただ、論調は今ひとつかな)。

多くの古くから住む岡山県民――謂わば植民地における先住民族には大変に悲しい話ではありますが、岡山県(に限った話じゃないかもしれないが)はある種の植民地なわけです。とりわけ、多くの産業が集積する県南地域は東京や大阪の資本による植民地なわけです。

支店経済都市という言葉(札仙広福ということばの方が古い人には馴染みがあるのかも)は、例えば札幌市のような東京・大阪の資本配下の第三次産業が強い地域を指すわけですが、岡山県の県南地域はこれの第二次産業版――典型的な工業都市です。岡山市街や倉敷市街だけを見てるならば気づかないでしょうが、沿岸部の工場地帯はほぼ東京・大阪の資本であって、地場産業はそれらに従属する位置づけになっています。
支店経済都市はバブル崩壊以降打撃を受けたという言説をよくされますが、一方でこれらの工業地帯も同時に影響を受けていたりします。それは、裾野・従属的立ち位置の地場産業がより従属的立場になっていくというものです。
当たり前の話ですが、経済後退は需要が減少し仕事が減ります。比較的劣位な立ち位置の地場産業はそれでも経済拡大期であれば、営業活動次第で従属的立ち位置から抜け出しメジャーなサプライヤーに育つというケースがありました。一方で経済後退によってよりコストを減らす動きを大資本がするなか、これらの地場産業は従来の取引先に対してより従属的な活動をせざるを得ない状況に陥ります。

言ってみれば、岡山県の特に県南地域は東京や大阪といった植民地帝国のいち植民地(ちょうど、大英帝国に対するインドのような)に零落していったわけです。

さて、植民地における宗主国民の振る舞い、その暴虐は論を俟たないわけであって、要するにこれらの交通違反というのもその一つでしょう。
ことこれについては、交通警察が本気になって取り締まりをすれば減少させやすいでしょう。ま、植民地において、それが出来るかは想像に難くないですが。

二輪車と四輪車を混同する現在の免許制度こそ問題では?

二輪の免許制度緩和で125ccバイクも普通免許で可能に?SNSでは否定的コメントも 【オートックワン】

そもそも運転特性が相当に異なる普通自動車免許等に原付免許がつくこと自体、疑問に思えてならない。他方二輪の中で原付免許で運転できる範囲を広げるのは一考の余地ありかと。

2016/09/23 15:59

そもそも書き手が毀誉褒貶相半ばする人物で、色々と物言いにも文句を言いたいところではありますが(アニメアイコンが云々なんてのはクソの役にも立ちゃしない話だ)一方で交通行政――就中運転免許制度が場当たり的だという問題は現状の準中型免許などという恥ずかしい免許制度を見ればよく分かるでしょう。

四輪車の免許制度については、ある種戦前の「自動車の運転が特殊技能」だった時代の名残を多く引きずっていて現在もそれを糊塗し続けているというのが実際のところです。モータリゼーションが進むなかで、マイカーライセンスとビジネストランスポートライセンスを分離した上で、運転特性の応じて分離すべきだったわけですね。今更ですが。

二輪車は暴走族や事故によって社会問題に「なってくれた」おかげで、まだマシなわけです。一応、ある程度までは運転特性や危険度に応じて、自動二輪免許は分離されているわけですから。

ただ、ここに最大の問題があります。第一種原動機付自転車に対する免許――いわゆる原付免許です。言うまでもないことですが、第一種原動機付自転車(それと小型特殊自動車)はたいていのドライバーライセンスで運転「出来て」しまいます。
当然ながら四輪車と二輪車では運転特性が大きく異なります。いくら原動機付自転車の法定速度が30km/hであったとしても、原動機の無い軽車両たる自転車と比較すれば速度は大きく異なるわけです。

本来のスジ論であれば1960年の道路交通法施行の時点で、原動機付自転車二輪車系のライセンス体系に組み込み、四輪車のライセンスでは運転できないようにすべきだったのですが、場当たり的な交通行政(いわゆる免許の既得権との整合性)のために今まで手付かずになってました。

運転特性や速度レベルから言えば、二輪車のライセンスは原動機付自転車免許を廃して、小型・普通・大型の三本立てにすべきでしょう。その上で小型ライセンスについては、ある程度のトレーニングを行うことを前提として原動機付自転車免許と同等レベルの簡易な免許制度にするのが望ましいと考えます。

アングロサクソンの味覚に対する鈍感さはもはや文化に対する犯罪である

英国でスプレー式紅茶が登場、ティーバッグの時代は終わりか | ロイター

これだからアングロサクソンは…… と些か人種的偏見を撒き散らしたくなるシロモノ。というかよりにもよって紅茶でこれをやってしまうあたり色々と根深いとしか。

2016/09/23 16:02

もはや、ブックマークコメントとタイトルが全てというべきでしょうね。
紅茶にまつわる文化については、アングロサクソンの食文化で数少ない評価に値すると思いますが、それですらこのような商品を出してしまうとは…… もはや絶句するしか無いです。

マグロの大トロにマヨネーズはある種究極の贅沢かも

マヨネーズかけたら意外とおいしかったものを教えてくれ。

マグロ土佐船という本で、マグロ漁師は商品にならないマグロを食べるときマヨネーズをつけて食べるそうな。 なお自分では試したことがないので悪しからず。

2016/07/09 10:27

ブックマークのときには気づかなかったのですが、正しくは「まぐろ土佐船」でしたね。

私が読んだのは小学館文庫版なのですが、そのなかで以下のようなくだりがあります。

 魚は釣りたての活きがいいものが美味いが、マグロだけは一度凍結した方が身が締まって美味い。獲りたてのマグロはコリコリして色も悪い。白く凍ったマグロが解凍され、刺身を皿に盛りつけるときには、黒みがかった赤身が見事、鮮紅色に変貌する。
 このマグロを、船の人たちはマヨネーズで食べていた。小皿に醤油とマヨネーズを混ぜ合わせて食べる人もいれば、直接マグロにマヨネーズを絞り込む人もいた。それだけは真似をするまいと、私はしばらくワサビ醤油で食べ続けた。せっかく高価なマグロを、という意識が当時はまだ抜け切れていなかった。ある日、色の悪いバチが出た。水っぽくて、二、三切れ食べて嫌になった。刺身の横に添えられたキャベツにマヨネーズをかけた。そのマヨネーズが刺身に触れて、口の中に入った。刺身の味が一変した。ワサビ醤油と甘酸っぱさと脂気が渾然一体となって、あの水っぽいバチがトロのように、こってりした味となった。後を引く味だった。
(まぐろ土佐船/斎藤健次)

マグロに関する話で言えば、どくとるマンボウ航海記で北杜夫もひとくさり書いていたりするのですが、あちらは調査船ということもあって、大トロの良いところをバクバク食べていたんですよね。あの当時はまだマヨネーズがそれほど長期保存できなかったのか、北杜夫が敬遠したのかは判然としないのですが、悪魔が生わさびを差し出したら魂を差し出したくなるなどと書いてましたね。

自慢をしたいという欲求は意外と抑えがたい人間のサガなのか

【老師オグチの家電カンフー】 三種の神器とドヤ家電と諸行無常 - 家電 Watch

ある種業界人には常識なのかもしれないが「ドヤれる」アイテムほどキャズムを超えるのが早いってことなんだろうな。本質的価値より大事かも

2016/09/21 11:08

家電Watch誌の比較的軽めのコラムですが、結構読むべき内容だったのでご紹介しておきます。
テレビは確か1964年(昭和39年)の東京オリンピックで一気に普及したという話は知っていたのですが、洗濯機や冷蔵庫以上に急激に普及したというのは知らなかったですね。

本質的な価値は、極めて重労働である洗濯を自動化することだと思っていましたからこっちの方が早かったと思ってました。今の若い人たちはどうか知らないのですが、私が小学校のころの家庭科で手で洗濯をするという実習がありました。その時はかんたんな手ぬぐいだのハンケチだのでしたけど、それでも結構大変で洗濯機というイノベーションの凄まじさを子供心に感じたものです。

冷蔵庫は実のところ「買回り品」が地場の商店を中心に済む時代をそれなりに知っているので、まあまあ、妥当なところでしょう。「昭和50年になって、ようやく1世帯に1台にな」るというくだりは、同時にダイエーなどのスーパーマーケット(というか総合スーパー(GMS))が進出してくる時代とパラフレーズしていて、こういった店で「買い貯め」をすることが当たり前になると同時に「買回り品」を地場の商店で済ませられない――スーパーマーケットの進出で潰れていく時代の到来を象徴しているようです。

で、このドヤ家電という概念です。このコラムを担当されている小口覺さんが過去のコラムで書いているのですが、なかなか鋭い視点だと思います。

 ドヤ家電を知るには、そもそもドヤとは何かを知る必要があります。ドヤの意識は、次の4つに集約できるのではないでしょうか。

1.デキる男(女)だろうドヤ
2.経済力高いだろうドヤ
3.ハイセンスだろうドヤ
4.イノベーターだろうドヤ

 1と2は本質的には似ています。生産性の高さか、その結果持っている富のどちらに重きを置くかの違いです(フローとストックの違いですな)。スタバでMacBookは1に近く、高級腕時計は2でしょう。実用性が高ければ1、低ければ2です。

 たまに「時計なんて1,000円のカシオで十分」「車はカローラで十分」などと得意げに語る人がいますが、これはコストパフォーマンスという生産性をドヤっているわけで、1に該当します。

 人類の歴史をさかのぼってみると、縄文時代以前は1が重要でした。獲物を獲る能力が高い、腕力があり外敵から身を守ることができることが、デキるということ。火起こしの技術が高い人が、その集団で尊敬されるなんてこともあったかもしれません。特製の火起こし棒を持っていれば、それは現代におけるドヤ家電です。財力を誇示する2が登場したのは、やはり狩猟から農業・牧畜へ移行して以降でしょうか。

 3の「ハイセンスだろうドヤ」は、主にデザインの価値を誇るタイプです。家電でも一般的に国内メーカーより、海外メーカーの製品の方がドヤ度が高い。これはデザインの優劣もあるかもしれませんが、海外メーカーの方が日本では少数であり、意識の高さを打ち出せるからでしょう。

 4の「イノベーターだろうドヤ」は、スマホやスマートウォッチを誰よりも最初に買ったと自慢するようなタイプです。情報感度の高さをドヤっているわけです。

 3も人類の歴史を考えれば納得できます。細かな変化に気づくことは、たとえば草むらの揺れから猛獣の接近に気づくなど、生き残るために必要な能力だからです。また、慣れ親しんだ場所や方法を捨てて、新しく挑戦するには、4の能力が必要です。弥生時代の稲作への移行しかり、大航海時代コロンブスしかりです。

 そう考えると、ヨーロッパは「ハイセンスだろうドヤ」、アメリカは「イノベーターだろうドヤ」の傾向が強いことが理解できる気がします。

【老師オグチの家電カンフー】 第6回:原始時代の本能から受け継がれる「ドヤ家電」とは? - 家電 Watch

他者へ自慢したい(それから得られる尊敬を得たい)という欲求は、指摘のとおり太古の時代から三大欲求の次くらいにあったでしょうし、それが現代に至るまで連綿とつながっているというのは人間のサガを考える上でなかなかおもしろい視座です。欧州と米国の傾向の違いも歴史的背景を踏まえれば納得できます。

さて、製品やサービスを企画する上で、もちろん本質的価値というのは大事なんですが、一方でこの「ドヤ」という要素も重要になってくるということですよね。ブックマークで書いたようにキャズムを超える最大の要素と言っても良いかもしれない。

色々出ては消えていく製品・サービスをこの「ドヤ」の観点で睨んでみると面白いかもしれません。