伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

工学の歴史 機械工学を中心に(三輪修三/ちくま学芸文庫)


ぼくらの身近のものは当たり前の話だけど一定の法則があって成り立っている。小は機械式の時計だったり大きなもので言えば電気を生み出す発電所だったりする。さらに言えばそれらを生み出す加工用の機械だってそうだ。これらは「工学」という学問分野によって研究されていたり開発されていたり、そして新たな製品が生み出されている。
本書はそんな工学の歴史について通史として述べた一冊だ。古くは四大文明の時代から、もちろん原始的なものだけどこういった工学的なものがあってその歴史の中に今の製品や技術があるというパースペクティブは、大きな歴史の中に自らを置くことができるものだ。
こういった技術そのものから若干外れた研究というのは、とかく斯界の中では一段低く見られる傾向がある。なんとなれば、研究の世界で業績を出せない連中が喰う為にやるという見方をされてしまいがちだ。だけども、こういった大きな流れが前提として今があるということは技術者のみならず一般のひとたちも身に着けるべきだと思う。言い換えれば教養の一つというべきだろうか。
若干愚痴交じりの物言いになるけども、技術者のひとたちはこの手の教養に対する意識が低すぎるとぼくは思っている。それは先述したように技術そのものから若干外れた世界に対して本筋ではないという考え方もそうだし、モノを実際に作る中でもこういった教養が無いが故に、意味不明な失敗作が多数生み出されていることを見ても言えると思う。
一方で一般のひとたちも同様だ。身の回りにある製品や技術に対してどれほど興味を持って生活しているだろうか? 技術というものが半ば所与のものとしてその恩恵を享受しているけども、その仕組みや働きを全く理解せずに使っているということにどこかしら気持ち悪さを持たないんだろうか? ぼくはそういった態度に対して、不見識だと思うしある種無責任でもあるように思う。
本書はあくまでも入門書であり、大学の教養部(今はこんな言い方をしないけど)で扱われているような内容だ。必ずしも読み易いと言えるものでもないし、解説無しで読むには少し辛い内容であることは否定しない。ただ、本書で述べられているような大きな流れの中に今のぼくたちの生活があるということを感じるだけでも本書を読む価値はあると思う。
と、まあお堅い話はこのくらいにして。ぼく自身若干アウトサイダーなミリヲタとして、一時期造兵史に凝った時期があった。造兵史というのは銃や火器、火砲、車両についてどのような系譜――いわば兵器を開発する大きな歴史の流れについての学問だ。日本では個々の兵器について語る人は多いけども、造兵史という大きな流れについて触れた人はあまりに少なく、国会図書館に通い詰めていろんな資料を読んだ時期があった(我ながら暇人だと思うが、趣味なのだからしょうがない)。
こういったものを読んでいて一つぼくの中で確信を持って言えることがある。それは「兵器とは技術と必要の掛け算」であるということだ。つまり、兵器そのもののスペック(ある種「必要」の部分)だけ追っかけていてはその兵器の本質に迫ることができないということだ。技術という必然性であり制約があり、その中で必要に迫るというのが兵器開発の一つの本質だとぼくは今でも思っている。例えば、冶金技術の遅れが日本の兵器の一つの制約になっていたということを知らなければ、非常に一面的で偏った見方を日本軍の兵器に対してしまうことになる。
本書はそんな兵器の世界の技術についても触れられていてなかなか興味深かった。米軍のリバティ船の脆性破壊の話は事項としては知っていたけども、工学の分野でも一つの課題となっていて、それが30年も前の研究がブレイクスルーとなったなんてとっても面白い話じゃないか。また、零戦のフラッタ―対策が新幹線の台車――つまり高速鉄道の台車の技術につながっているという話も大変面白いものだ。ミリヲタの知識増強という意味でも本書はオススメできると思う。
繰り返しになるが決してお手軽な本ではない。ただ、本書を眺めて内容を追うことで少しでもこういった教養を身に着けることができるはずだ。確信をもってオススメしたい。

まえがき

1 古代の機械技術と技術学――紀元前5世紀から後9世紀ごろまで
 1.1 古代社会と技術文化の概要
 1.2 古代中国の機械技術と技術思想
 1.3 古代ギリシャ・ローマの機械技術と技術学
 1.4 イスラム世界の機械技術書

2 中世の機械技術と技術学(10-14世紀)
 2.1 中世社会と学術・技術文化の概要
 2.2 文化の華開く中国――宋代の技術と技術学(10-13世紀)
 2.3 中世ヨーロッパ――学術と技術の発展(12-14世紀)
 2.4 社会不安と軍事技術の発達(14,15世紀)――中世からルネサンス

3 ルネサンス期の機械技術と技術学(15,16世紀)――技術と科学の結合
 3.1 ルネサンス期の社会と学術・技術文化の概要
 3.2 軍事技術の隆盛――戦争に明け暮れるルネサンス
 3.3 ルネサンス期の技術学
 3.4 ルネサンス期の主な技術書

4 動力学の誕生と発展(17世紀)――ガリレオからニュートンまで
 4.1 17世紀のヨーロッパ社会
 4.2 技術の発展と近代科学の誕生
 4.3 動力学の誕生と発展

5 動力学の展開(18世紀)――解析力学の完成
 5.1 18世紀のヨーロッパ社会と学術文化の概要
 5.2 科学の研究機関――科学アカデミーの成立
 5.3 動力学の展開――「ニュートンの力学」から「ニュートン力学」へ

6 産業革命と近代エンジニア(18,19世紀)
 6.1 産業革命を引き起こしたもの
 6.2 動力革命、蒸気機関と動力水車の発展
 6.3 工作革命、精密工作を可能とした技術
 6.4 近代エンジニアと技術者団体の成立
 6.5 王政フランスの土木技術と技術学
 6.6 王政フランスの技術学校と技術エリート

7 ニコル・ポリテクニク――工学と工学教育の誕生
 7.1 フランス大革命とニコル・ポリテクニクの創立
 7.2 エコル・ポリテクニクの群像――工学の誕生
 7.3 エコル・ポリテクニクが残したもの

8 近代機械工学の夜明け
 8.1 鉄道と近代造船のインパクト――機械技術のテイクオフ
 8.2 黎明期の機械工学者たち

9 産業技術の発展と機械工学
 9.1 産業社会の出現
 9.2 機械文明の開花――アメリカ
 9.3 機械製図法と工業規格
 9.4 機械工学の教育と研究の進展

10 機械工学の専門分化と発展I――材料力学、機械力学
 10.1 材料力学の発展
 10.2 機械力学の発展

11 機械工学の専門分化と発展II――流体工学、熱工学
 11.1 流体工学の発展
 11.2 熱工学の発展

12 近代日本――機械工学の導入と定着
 12.1 江戸という時代――文化の高まり
 12.2 江戸時代の機械技術と機械学
 12.3 幕末・維新期の主な機械工学書
 12.4 洋式工学教育の開始――ヘンリー・ダイアーと工部省工学寮
 12.5 日本の機械工学の離陸
 12.6 日本の機械技術・機械工学の発展――研究所ブームと重工業時代

13 機械工学の現在と未来
 13.1 第二次大戦後の技術革新
 13.2 機械の先端技術と機械工学の現在
 13.3 技術を取り巻く社会環境の変化
 13.4 新時代のキー・ワード――「人間」
 13.5 未来に向かって

14 終章――工学史への招待
 14.1 まとめ――歴史にみる機械と機械工学の変遷
 14.2 技術と科学と工学と
 14.3 工学史への招待

機械技術史・機械工学史年表
参考文献
あとがき
事項索引
人名索引

時刻表昭和史(宮脇俊三/角川文庫)


存外、個人の人生というものは鉄道の動きに合わせたものなのかもしれない。最近ふとそんなことを思うようになってきた。
なんとなれば、ぼく自身も小学校に上がるまでは「電車」に乗ることが特別な出来事であった。それは実家のマイカーで移動することが多かったというのもあるが、わざわざ幼少の者が鉄道で移動するという機会があまりに少なかったということがある。小学校に上がり塾に通いだすと、最寄駅と塾のある駅まで小田急線を使うようになった。ほんの数駅ではあったが、とりわけ帰宅ラッシュと重なる帰路は今まで見たことのない世界を垣間見ることとなった。ただ、ぼくにとっての日常としての鉄道――小田急線から離れてJRや他社線に乗ることは滅多に無かった(実の所、塾の講座の関係上当時としては超長距離を移動していたときもあったが)。ただ、今でも覚えているのが、地下鉄千代田線に乗ったときのことである。今でもそうだが地下鉄には何というか特有の重苦しさがあって、それに辟易したのを覚えている。
そして、中学・高校と越境通学をしていたころになると、今度はその辟易した地下鉄千代田線に毎日のように乗ることになった。朝の通学時間は通勤ラッシュの少し前であったが、複々線化事業がようやく始まろうとしている当時の小田急線は地獄のようなラッシュでありよくもまあ通えたものだと今でも思っているが、当時もそれなりに体格が良く通学にあたってもそれほど支障が無かったというのが実情だったのかもしれない。このころから、鉄道は日常と非・日常の境界の曖昧模糊としたものになっていった。親からの小遣いでそうそう遊び歩くわけにもいかず繁華街をうろつくことは無かったものの、友人の住む家に遊びに行ったりするのに定期券を乗り越して些少の金を小遣いから出していた。日常の範囲を飛び越え非・日常の世界をぶらついていたのである。
大学になるとその曖昧模糊としたものがさらに広がる。鉄道会社でアルバイト駅員をやっていたからだ。さらに、鉄道趣味にややのめりこんでいたこともあり、この時期のぼくにとっての鉄道は、日常でもあり非・日常でもありとまさに鵺のような存在であった。
長じて社会人になると、今度は出張で非日常の頂点であった長距離列車を使うことが日常茶飯事となり、ますますよくわからない存在になっていった。
このように、ごくごくつまらないぼくのような存在であっても、鉄道と人生がなんとなれば切っても切れない関係にある。況や鉄道紀行作家として名高い宮脇さんにおいてをや、である。本書は、その宮脇俊三さんの幼少期から青年期にかけての人生と鉄道をクロスオーバーさせた紀行文であり個人史である。
鉄道についての話というのはどうしても業界――いわゆる鉄道趣味者か鉄道会社勤務者の内輪的な話に終始してしまうことが多いのだが、宮脇さんの鉄道紀行文はそのいずれかのものではない。いや、宮脇さん自身が鉄道趣味者であるしある面では趣味者に向けたものではあるのだが、その名文はそれ以外の一般人に取っても読む価値がある格調高いものである。どうしても趣味者が手に取ることが多いこともあり、その中で今の鉄道旅行の話ではない本作は比較的売上が振るわなかったそうであるが、ぼくは宮脇さんの本の中で一番読むべき一冊だと思っている。
幼少期の鉄道についての思い出――列車を眺めたり家族旅行の中で利用するという非日常としての鉄道、青年期の鉄道についての思い出――見たいものを見るために様々な手段を用いて戦中のあの時代に利用した鉄道。どの話を見ても、その時代の空気がありありと伝わってくる。
おそらく色々な書評で取り上げられているであろう、第13章の米坂線の描写は必読である。日本の時が止まったとき――すなわち1945年8月15日正午、玉音放送。時は止まっていたが汽車は走っていた。列車は時刻表通りに走っていた。このくだりは是非読んでほしい。歴史上の出来事という点は実は無限の時の平面の中の一点であり、鉄道という時と空間をまたがり二点間をつなぐ乗り物は、その制約を乗り越え何事も無かったかのように――日常を維持するために動いていたのである。
歴史好き、ミリタリ好きにとどまらず、いろんな人に読んでほしい一冊。幸い角川から絶版されたという話も聞かないし、それほど入手は困難ではないだろう。是非一度手に取ってほしい。

第1章 山手線――昭和8年
第2章 特急「燕」「富士」「櫻」――昭和9年
第3章 急行5列車下関行――昭和10年
第4章 不定期231列車横浜港行――昭和12年
第5章 急行701列車新潟行――昭和12年
第6章 御殿場線907列車――昭和14年
第7章 急行601列車信越本線経由大阪行――昭和16年
第8章 急行1列車稚内桟橋行――昭和17年
第9章 第1種急行1列車博多行――昭和19年
第10章 上越線701列車――昭和19年
第11章 809列車熱海行――昭和20年
第12章 上越線723列車――昭和20年
第13章 米坂線109列車――昭和20年

略年表
参考図書
あとがき
解説 奥野健男

シビリアンの戦争(三浦瑠麗/岩波書店)


いきなりで恐縮だが、ぼくはドイツ参謀本部のような歪んだプロフェッショナリズムというものが大嫌いだ。ドイツがあんなグチャグチャになったのも、極論を言えば彼らの歪んだプロフェッショナリズムがドイツという国家を自爆に導いたと思っている。同様に日本における旧陸海軍も同じ穴のムジナだ。そういう意味では文民統制(シビリアン・コントロール)というものは重要だし、議会や民主的に選ばれた政権によって軍事行動は制御されるべきだと思っている。
しかし、本書はその考えに対して驚くべき指摘をしている。戦争はむしろ当事者意識の無い文民によって引き起こされるものだ、と。所謂通論で言えば、これは荒唐無稽なものと言ってしまっても過言ではない。先述したように、軍というものは文民による制御が無ければ勝手に戦争を引き起こして国民に迷惑をかける、というのが世間一般の共通認識だからだ。だが、本書の丹念な研究はそういった通論を打ち砕く。民主的に選ばれたはずの政権が戦争についての当事者意識もコスト意識も無く、戦争を引き起こし多大な犠牲とコストをもたらすのだ、と。事実、本書で指摘されたような戦争――クリミア戦争やレバノン戦争、それにフォークランド紛争、イラク戦争――が遂行される過程において、文民の方がイケイケドンドン(これは政権や議会だけではなく国民もだ!)で軍や官僚たちプロフェッショナルどもの方が抑制的だったのだ。
実際、レバノン紛争の当事者であるイスラエルでは、軍人たちによる平和団体「ピース・ナウ」というものがあったりするし、イラク戦争では退役した軍人たちによる批判も数多く出ている。本書で述べられている中でも、クリミア戦争では戦争そのものに批判的だった軍人が戦後責任を押し付けられて更迭されたりなんぞしている。
ぼくらが認識していた文民統制というものは、実は間違った考えなんだろうか? 実は軍のことは軍に任せるという方がよっぽどいいんじゃないだろうか?
ぼくはそうは思わない。プロフェッショナルはもちろんその分野ではとても有用なものだし、本書で記述されているような戦争に対する批判という点においてその能力を発揮した見解だと思う。だけど、それに任せるということが果たして本当に良いことなんだろうか? にわかにはこの疑問についての解答は導き出せないけども、プロフェッショナル任せということが国民にとって良いこととはぼくは思わない。
むしろ批判されるべきは、当事者意識を持たないぼくらの方にあるんじゃなかろうか? 若干身内批判になるので言いたくはないけども、威勢のいい意見に引っ張られる向きが結構見受けられるのだが、それによって払う犠牲(これは人命もそうだしコストだってそうだ)についてどれだけ考えているんだろうか? むしろ「なんとなく」で威勢のいいことを言って、反戦団体(彼らにも批判されるべき側面があるのは事実だけど)叩きをすればいいというある種の自己満足にひたってないだろうか?
本書はそういうことを考えるきっかけとしては適切なものだと思う。無論、本書が完璧なものだとは言えない。山形浩生さんの書評でも触れているけども「軍人のほうが反戦的という主張は、ひょっとしたら成り立たないかもしれない」という問題はあるし、シビリアンによる戦争ということを研究するにおいて、もっと触れるべき戦争(たとえばわかりやすい所ではベトナム戦争だ)があるはずだ。ただ、あくまでも考えるべき当事者はぼくたち国民ひとりひとりなわけで、そうそうたやすく「プロフェッショナル」に任せきりというわけにもいかないと思う。だからこそ、本書を一読して考えてみるべきではないかと、ぼくはそう思う。

余談
先に触れた山形浩生さんの書評の中で中国について触れていたけども、どちらかといえば中国の場合中南海のエリート層と軍である種の当事者意識の齟齬があるんじゃないかと思う。特に人民解放軍がらみの話題というのは、本当に表に出てこないので見えない部分があるのだけども、実際に指揮を執る側からしたら政権の当事者意識の無さに色々ともどかしさを感じている連中はいるのではないかと勝手に思っている。むしろ、こういった研究で言うならば北朝鮮とかで考えてみた方がしっくりくるんじゃないかと思う(あそこも必ずしも政権と軍の関係がガッチリというわけじゃないけど)。

略語表

第I部 軍、シビリアン、政治体制と戦争
 第一章 軍とシビリアニズムに対する誤解
 第二章 シビリアンの戦争の歴史的位置付け
 第三章 デモクラシーによる戦争の比較分析

第II部 シビリアンの戦争の四つの事例
 第四章 イギリスのクリミア戦争
 第五章 イスラエルの第一次・第二次レバノン戦争
 第六章 イギリスのフォークランド紛争

第III部 アメリカのイラク戦争
 第七章 イラク戦争開戦に至る過程
 第八章 占領政策の失敗と泥沼
 第九章 戦争推進・反対勢力のそれぞれの動機

終部 シビリアンの正義と打算
 第一〇章 浮かび上がる政府と軍の動機
 終章 デモクラシーにおける痛みの不均衡

用語解説
あとがき
引用・参照文献

登場人物一覧

不肖・宮嶋 南極観測隊ニ同行ス(宮嶋茂樹・勝谷誠彦 構成/新潮文庫)


説明不要な「不肖・宮嶋」氏とサイバラさん曰く「ほもかっちゃん」勝谷氏による爆笑ルポルタージュ。以前ツイートした「面白南極料理人」(西村淳/新潮文庫)と時期がオーバーラップしているので併せて読むと吉。
ただ、色々と朝日だの社民党だのこき下ろしている割には、後々西村淳さんの方の本で色々disられているワケでございまして。そのあたりは少しあとがきでもexcuseされているのがオモロイ。なんと言いますか「ダブルチェック」って大事だよねってことを心の底から感じる体験をできる本であります(前提、西村さんの方を読んでいること)。そういう意味では稀有な体験ができるかと。
ある種の観客的感覚で言うならば、宮嶋さんのルポルタージュは矢張り戦場、それも爆弾がドカドカ落ちてくるようなイラクの地みたいなところで発揮される気がする。報道カメラマン、それも修羅場で切った張ったをする宮嶋さんのルポを幾つか読んでいると、極地の過酷さがぬるく見える不思議が。もっと地獄を! と思ってしまう無責任な観客になってしまうのだ。

自分で調べる技術(宮内泰介/岩波アクティブ新書)


インターネットの普及に伴って、「知っている」から「調べる」への置き換えが進んで久しい。かくいうぼくも、結構いろんなことを忘れながら生きていて、本を読んだり調べ物をしたりするとき、ウェブだの辞書だの、それに参考資料を探したりしながらやっていることが殆どだ。
ところが、その「調べる」の質はどうなんだろう? と思うことが、ままある。それこそ、まるで何も調べず、学ばず書き飛ばしているような言説が飛び交うのを目の当たりにすると、とてつもなくげんなりするのだ。それに日常生活だけの話だけじゃない。本来「調べる」ことをしながら学問を修めるはずの大学生ですら、よくよく調べもせず物事を見過ごしていることがよくある。それでいて、卒論となると真っ青な顔をして図書館や本屋を探し回るならまだマシで、担当教授に泣きついてテーマやら文献やら聞いて済ませるなんてフトドキモノも沢山居ると聞く。
本書は、そんな風潮に対して一石を投じてくれる。もともとは市民活動――みんなが忌み嫌うプロ市民もここには含まれるかもしれない――向けに書かれた調査についての本なのだが、そんなところだけに使うのも勿体ない。2004年に上梓されたこともあり、使う機材(今どきMDレコーダを探そうとしても結構困難だろう)やインターネット周りの話もちょっと古さを感じさせるところがあるが、図書を探したりそれを纏めたり、インタビューしたりといった部分は今でも十分通用する内容だ。
何かを調べる必要があるとか、論文を纏めなければならないといったシチュエーションだけではない。日常を過ごす中で疑問を持ったり、仕事をする中で調べ物をすることだって、当然あるはずだ。そういった時にこの本は役に立つだろう。