シビリアンの戦争(三浦瑠麗/岩波書店)
いきなりで恐縮だが、ぼくはドイツ参謀本部のような歪んだプロフェッショナリズムというものが大嫌いだ。ドイツがあんなグチャグチャになったのも、極論を言えば彼らの歪んだプロフェッショナリズムがドイツという国家を自爆に導いたと思っている。同様に日本における旧陸海軍も同じ穴のムジナだ。そういう意味では文民統制(シビリアン・コントロール)というものは重要だし、議会や民主的に選ばれた政権によって軍事行動は制御されるべきだと思っている。
しかし、本書はその考えに対して驚くべき指摘をしている。戦争はむしろ当事者意識の無い文民によって引き起こされるものだ、と。所謂通論で言えば、これは荒唐無稽なものと言ってしまっても過言ではない。先述したように、軍というものは文民による制御が無ければ勝手に戦争を引き起こして国民に迷惑をかける、というのが世間一般の共通認識だからだ。だが、本書の丹念な研究はそういった通論を打ち砕く。民主的に選ばれたはずの政権が戦争についての当事者意識もコスト意識も無く、戦争を引き起こし多大な犠牲とコストをもたらすのだ、と。事実、本書で指摘されたような戦争――クリミア戦争やレバノン戦争、それにフォークランド紛争、イラク戦争――が遂行される過程において、文民の方がイケイケドンドン(これは政権や議会だけではなく国民もだ!)で軍や官僚たちプロフェッショナルどもの方が抑制的だったのだ。
実際、レバノン紛争の当事者であるイスラエルでは、軍人たちによる平和団体「ピース・ナウ」というものがあったりするし、イラク戦争では退役した軍人たちによる批判も数多く出ている。本書で述べられている中でも、クリミア戦争では戦争そのものに批判的だった軍人が戦後責任を押し付けられて更迭されたりなんぞしている。
ぼくらが認識していた文民統制というものは、実は間違った考えなんだろうか? 実は軍のことは軍に任せるという方がよっぽどいいんじゃないだろうか?
ぼくはそうは思わない。プロフェッショナルはもちろんその分野ではとても有用なものだし、本書で記述されているような戦争に対する批判という点においてその能力を発揮した見解だと思う。だけど、それに任せるということが果たして本当に良いことなんだろうか? にわかにはこの疑問についての解答は導き出せないけども、プロフェッショナル任せということが国民にとって良いこととはぼくは思わない。
むしろ批判されるべきは、当事者意識を持たないぼくらの方にあるんじゃなかろうか? 若干身内批判になるので言いたくはないけども、威勢のいい意見に引っ張られる向きが結構見受けられるのだが、それによって払う犠牲(これは人命もそうだしコストだってそうだ)についてどれだけ考えているんだろうか? むしろ「なんとなく」で威勢のいいことを言って、反戦団体(彼らにも批判されるべき側面があるのは事実だけど)叩きをすればいいというある種の自己満足にひたってないだろうか?
本書はそういうことを考えるきっかけとしては適切なものだと思う。無論、本書が完璧なものだとは言えない。山形浩生さんの書評でも触れているけども「軍人のほうが反戦的という主張は、ひょっとしたら成り立たないかもしれない」という問題はあるし、シビリアンによる戦争ということを研究するにおいて、もっと触れるべき戦争(たとえばわかりやすい所ではベトナム戦争だ)があるはずだ。ただ、あくまでも考えるべき当事者はぼくたち国民ひとりひとりなわけで、そうそうたやすく「プロフェッショナル」に任せきりというわけにもいかないと思う。だからこそ、本書を一読して考えてみるべきではないかと、ぼくはそう思う。
余談
先に触れた山形浩生さんの書評の中で中国について触れていたけども、どちらかといえば中国の場合中南海のエリート層と軍である種の当事者意識の齟齬があるんじゃないかと思う。特に人民解放軍がらみの話題というのは、本当に表に出てこないので見えない部分があるのだけども、実際に指揮を執る側からしたら政権の当事者意識の無さに色々ともどかしさを感じている連中はいるのではないかと勝手に思っている。むしろ、こういった研究で言うならば北朝鮮とかで考えてみた方がしっくりくるんじゃないかと思う(あそこも必ずしも政権と軍の関係がガッチリというわけじゃないけど)。
略語表
序
第I部 軍、シビリアン、政治体制と戦争
第一章 軍とシビリアニズムに対する誤解
第二章 シビリアンの戦争の歴史的位置付け
第三章 デモクラシーによる戦争の比較分析第II部 シビリアンの戦争の四つの事例
第四章 イギリスのクリミア戦争
第五章 イスラエルの第一次・第二次レバノン戦争
第六章 イギリスのフォークランド紛争第III部 アメリカのイラク戦争
第七章 イラク戦争開戦に至る過程
第八章 占領政策の失敗と泥沼
第九章 戦争推進・反対勢力のそれぞれの動機終部 シビリアンの正義と打算
第一〇章 浮かび上がる政府と軍の動機
終章 デモクラシーにおける痛みの不均衡用語解説
あとがき
引用・参照文献
注
登場人物一覧
決戦下のユートピア(荒俣宏/文春文庫)
博学で知られる著者による第二次大戦下の日本におけるひとびとの暮らしを面白おかしく綴った一冊。
ぼく自身ミリヲタとして非常にアウトサイダーなヤツでありまして、兵器の話だとか戦術の話よりも、末端の飯炊き兵のはなしだとか輜重輸卒のはなしが大好きなわけであります。自然、たいがいのミリヲタとの交わりは疎遠になって、流通関係(輜重輸卒のはなしから、小行李・大行李、そして兵站、ロジスティクスへと発展していく)だとか著しきは米軍のマニュアル(これは神保町に専門の古本屋がある)なんぞを好んで買っては読みふけるという、何ともおぞましいドロップアウトミリヲタが誕生したわけである次第。
こんなぼく自身のヨタ話はどうでもいいのだが、この本もそんなアウトサイダーでドロップアウトしたミリヲタのぼくにとってはとっても楽しい本だ。何しろ「ユートピア」である。そもそも「ユートピア」という言葉がもとの本からして反語的意味を持つからして、どれほどのエピソードを読ませてくれるのかとワクワクしてしまう。そして、実際内容はびっくりするほど「ユートピア」であった。何しろ、のっけからロクデモナイ母親の話から始まるのである。どれほどロクデモナイ母親だったかは、是非手に取って確かめてみて欲しいが、読めば読むほど「こ れ は ひ ど い」と思わせる話で満載だ。
とはいえ、面白おかしいだけの本ではない。冒頭の一節は昨今の生真面目なのかバカ正直なのかよくわからない、青年連(もっとも本当に青年と云える年なのかは知らんが)にも是非読ませてあげたいことを綴っている。最後にこれを引用して結論に代えさせてもらおう。
「まあ、相撲でいうなら、腰を引いて左半身、といったところだろうか。ものごとはすべからく、半身がよい。ゆめゆめ、がっぷり四つ、になど組んではならない――、というのが、歴史を相手にするときの、自分流の心構えである」
ユダヤ人とパレスチナ人(松本仁一/朝日新聞社)
朝日新聞で海外特派員を経験し、現在はフリージャーナリストとなっている著者による、中東における対立を纏めた一冊。
「カラシニコフ」や「アフリカを食べる/アフリカで寝る」と同様に、現地に住むひとびとへの徹底した取材に基づくものとなっており、非常に読ませる内容だ。これが書かれた当時、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長による暫定自治への合意があり、中東和平への希望に満ち溢れていたということもあって、和平についてとても楽観的な書きぶりとなっている。だが、現状はご存じのとおり。いまだに泥沼のような状況である。
そういう点は確かに減点せざるを得ないのだが、それでもここで書かれている内容もまた真実の一つではあろうと思う。というか、実際に暮らしているひとたちからすれば、ドンパチなんてただの迷惑でしかないのだ。
個人的に興味深かったのがイスラエルの反戦運動団体「ピースナウ」だ。なんと、この団体の構成員はみんな予備役軍人や現役軍人なのだ。もっともこれにはカラクリがあって、イスラエルでは国民皆兵を制度としているから、当然こういう団体の構成員も自動的に軍人ということになる。ただ、現役士官も所属しているし、そもそもの設立経緯が現役の士官たちが連名で当時の首相に「大イスラエル構想」に対して問いただしたものだというのだから、ちょっと面白いではないか。どこかのクビになった某空軍士官は一度読んでみてもいいんじゃないかと思う。
ヨタはともかく、通り一遍の中東について知るのではなく、そこに住むひとたちについて知りたいのであれば一度読んでみることをおすすめする。
カラシニコフII(松本仁一/朝日新聞社)
前作の「カラシニコフ」が「失敗した国家」という非常に大きなテーマを扱っているので、どうしても期待が大きくなってしまうわけだが、本作はちょっともにょってしまう感じなのがちょっと残念。本作は前作でアフリカの諸国家のような「失敗した国家」ではなく「普通の国々」や「努力している国々」におけるカラシニコフの問題を中心に取り扱っている。
1章のコロンビアのケースは「政府に国家建設の意欲はある。しかし、アンデスという統治しにくい山地を国内に抱え込んでしまったため、治安確保の手が及ばないのだ。」と述べている。つまり地勢的問題(この地域はコカイン密造でも有名だ)から「失敗国家」の要素が地域的に発生してしまうという問題を抱えているわけだ。そこに本書の主役「カラシニコフ」が絡んでしまっている。驚くのがノリンコの「粗悪な」スポーターモデルが千ドルという高値で取引されていることだ。もっとも支払いはコカイン。つまりはその筋の方々によるあまりよろしくない取引が横行しているわけだ。この取引は本来こういう動きに対して敏感であるべきな米国の銃器通販業者が絡んでいるというのだから、驚き。実際に米国当局にとっても頭の痛い問題なのだという。
本書がスゴイのはこの話をカラシニコフ御大本人にインタビューしているところだ。当然御大はオカンムリ。ライセンスが切れているにも関わらず勝手に改設計して輸出を続けるノリンコに「開発者として不愉快だ」とまで言っている。
また、4章のAK密造の村を取材した話は目からウロコもんだった。密造銃というと、どうしたって「サタデーナイトスペシャル」なシロモノを想像してしまうのだが、ところがどっこいこの村の密造銃はレベルが違う。銃身の鍛鉄や引き金の鋳鉄といった重厚長大な設備が必要な部品は外注して、それ以外の部品をすりあわせしながら組み立てるという、なかなかどうして凄いことをやっている。ちょっと不謹慎かもしれないが、関満博教授(明星大)の産業集積の話を思い出してしまった。何となれば、日本の町工場ネットワークのようなものがここには形成されているのだ。そういう観点で見ると実は物凄くレベルの高い世界なのだ。勿論、職人の腕前によって出来不出来があったりして安定しない側面はあるのだが、それでも実用面ではほぼ問題無いと売ってる側が言ってるのだから凄い。ただし、ちょっとマニアックな視点で言えば銃身のライフリングが鍛造じゃなくて切削な分強度に劣るところはあるそうな。とはいうものの、銃に詳しい向きに尋ねるとよほど究極的な精度を求めない限りはあまり関係無いとのこと*1。いやはや「密造銃」とあながちバカにできたものじゃないと思えるところが凄いし驚きだ。
また、イラクやアフガニスタンの国軍再建に東欧製のAKデッドコピーを使っていることにロシア政府やイジマシュがアメリカ政府にクレームを入れている話はなかなか興味深い。これ単体の話は傍から眺めて指さして笑うべき話なのだけども、そうも言ってられない側面がある。言ってみれば、知的財産権という観点での「ならず者国家」に口実を与えるような話にならないのかな、と。むろんパテントを軽視するような国家がどうなったかは1945年8月15日を見ればいいわけだけど、それでも先々を考えてあまり面白いこととは言ってられない。ちょっと軽挙だなあと思わせる話。これも非常に興味深い報告だ。
と、ここまでは面白い話が沢山転がっていて、日本の銃器ヲタクにも是非一読を勧めたいところなのだが、この後の章でまた雲行きが変わってしまう。アフガニスタンやイラクの話について、むろん読むべき内容は沢山あるし本当に労作だと思う。軍ヲタクラスタならずとも読んで損は無い。強盗に自宅を襲撃されたアフガニスタン運輸省技術課長のアブドル・ラティフの「銃は国家だけが持つべきなんだ」という証言は非常に重いし、今後のアフガニスタンやイラクを考える意味でも、非常に重要だと思う。
それでも現在進行形の話(そして朝日新聞的にあまり歓迎されないイラクやアフガニスタンの米軍進駐の話)だけに、どうにもまどろっこしさを感じてならない。もっとここらへんは単純化してもよかったように思う。そして個人的に一番疑問符をつけたくなるのが国家観のところ。もちろん言っている内容は至極真っ当なものだ。ただ、それがここまで大上段に語られると若干鼻白んでしまう。ここらへんは受け取る人によって違うとは思うのだが。
それでも本書の価値は褪せるものではない。所々にある軍ヲタなら爆笑できるエピソードも健在。個人的にはノリンコが日本向けアルミサッシをやっているということは初耳だった。ぶっちゃけどこの会社向けなのか気になってしまった。
軍ヲタクラスタにもそれ以外の人にも一度読んでおくことをお勧めしたいと思う。少なくとも日本の外にはこういった問題があるということを知るもよし、純粋に軍ヲタの知識増強でもいい。知識はそれそのもので価値があるのだ。
*1:そもそも、AK-47自体の原設計を考えれば精度を求めることにあまり意味はない
カラシニコフ(松本仁一/朝日新聞社)
2004年7月上梓の、今となってはだいぶ古い本だがそれでも読む価値は十分にある。幸い、朝日文庫に「文庫落ち」しているので比較的お手軽に入手できるはずだ。是非、老若男女問わず「朝日だから」などと言わずに読んでみてもらいたい。
とはいうものの、前半の少年/少女兵の話は些か不謹慎かもしれないが「よくある話」という印象を覚えると思う。カラシニコフへのインタビューも当時としてはソ連軍クラスタには生唾もんだったかもしれないが、今となってはそう珍しくもない。なにせ、ホビージャパンの「ぴくせる☆まりたん」にコメントを寄越したなんて話もあるし、本人の口述本も出てる。ソ連軍クラスタの向きにはそちらをおすすめした方がよさそうだ(や、ぴくせる☆まりたんではなくてね。あれもおもろいけど)
本書の眼目は四章の「失敗した国家」から。フォーサイスへのインタビューで語られたこの言葉が本書をただの「銃ヲタ向け本」や「観念平和本」と一線を画すものにしている。フォーサイスの言う「失敗した国家」とは。彼は「国づくりができていない国、政府に国家建設の意思がなく、統治の機能が働いていない国」であると言う。 また、このようにも語っている。「失敗した国家はわずかな武力でかんたんに崩壊する」。なにせ赤道ギニアの政府転覆疑惑(本人は本書で否定しているが)があるフォーサイスの発言。これは重い。というか赤道ギニアがそういう「失敗した国家」だと言っているようなものである(「戦争の犬たち」のモデルは同国なのだ)。
また、国連などの仕事で紛争地での医療に携わる喜多悦子が語る「失敗した国家」を見分ける方法は先進国である我々にも重たい言葉だ。 「警官・兵士の給料をきちんと払えているか」「教師の給料をきちんと払っているか」。これも不謹慎で無責任かもしれないが、本来遠いアフリカのドンパチ話がどうにも既視感を覚えてならないのは気のせいだろうか? と、まあ重たいことを長々と語ってみたところで軍ヲタども向けの話に移ろう。
我々系の歪んだ歴史ヲタクは、同時代と比較して「アリエナイ」ほど先進的な道具・技術・知識その他を「オーパーツ」と呼んでいる。 まあ、半径3m程度のジャーゴンではございますが、ニュアンスは解ってもらえると思う。で、このカラシニコフもそんな「オーパーツ」の一つに挙げられる。 しかし、本文中に語られる突撃銃として、ではない。 「機械は単純であれば壊れない」という設計思想がオーパーツなのだ。何しろ機械というものは、エンジニアという細かいことが大好きな人種によって開発されるが故に、どうも精緻なものになりがちだ。 別に偏見ではなくて、これは実体験の話だ。こと、日本人だのドイツ人が作るものはその傾向が酷くて……という話は本筋から外れるのでやめておく。 ここでカラシニコフの設計思想の話になる。「機械は単純であれば壊れない」これは物凄く重要でそれでいて忘れられがちな価値観なのだ。
多分、これを読んでいる大多数の人は「何を当たり前のことを」と思うだろう。そうだ。当たり前のことなのだ。 しかし、当たり前のことを実現することのなんと難しいことか! そしてそれをカラシニコフは実現してしまったのだ。それもソ連という(当時は準戦時体制だったとはいえ)官僚主義に満ち溢れた国で実現してしまったこと、そしてこの設計思想が後の工業デザインで「モジュール化」という形でようやく実現したことを思うと「オーパーツ」と評さずにはいられない。
私の場合、ミリタリと言っても銃そのものには興味が無くて、それを支える生産やロジスティクスといったニッチ極まりない分野が大好きな歪んだヲタクだ。そんな歪んだヲタクにとって、こんな時代を超えた設計思想というのはまさにご馳走なのだ。
さて、そんなヲタクヨタ話はこの位にして。 まずはAmazon(別にセブンネットでも楽天でもいいけどさ)でポチって読んでみることをおすすめする。 銃が嫌いでも、戦争を知らなくても、知っておくべきことは沢山あるのだ。