伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

働かないアリに意義がある(長谷川英祐/メディアファクトリー新書)


パレートの法則」という言葉がある。法則と言われているが実のところただの経験則というのが実態と言えるのだが、ともあれ世間ではよくよく使われている。これは「社会では少数の人間・事象が全体的な動きを支配し、大多数を占める部分は小部分が動かすにすぎない」というものである。よく80:20の法則とも言われている。さて、本書の「働かないアリ」の話である。実はアリにもこのようなことが言われていて、アリのうち2割は働かないアリだと言われている。さらに言うと、働く8割だけを取り出してみても次第にまたこの中の2割が働かなくなるそうな。よく、この部分だけを取り出して訳知り顔で後輩あたりにひけらかしているオッサンが居そうだが、まあよくある小ネタである。
本書はそんな小ネタの領域に留まらない、生物の進化や役割というものをかなり平易に解き明かした面白い本である。
この働かない2割のアリ、別にサボっているわけではない。仕事量が増えた際に応援として労働に参加するから働いていないのだそうな。本書ではこれを「反応閾値モデル」という言葉で説明している。こういった考え方は軍事クラスタならピンとくるのではないだろうか(いや、銃器だけ見てるような向きは違うだろうけど)。そう、軍事における「予備」という概念だ。戦場において(よっぽど小さい戦術ユニットでもない限り――それでも極力確保するように一定以上の階級ならば教育されるのだが)必ず戦線に張り付かせてない戦力――予備を確保する。この予備は一見仕事をしていない、将棋で言う「浮きゴマ」のように見えるのだが、例えば敗勢になったときに側面からの攻撃で使って撤退を支援するだとか、勝勢になったときにとどめに使うといったやり方をする。もっと詳しく述べるとあまりに専門的になるので大雑把な説明になるが、意義があるものなのだ。このアリの「反応閾値モデル」はまさにこの「予備」の考えとマッチするものなのだ。
さらにもっと面白い話がある。ミツバチを温室の中で使っているとハチが「過労死」してしまうのだそうだ。つまり、労働時間・労働量が増えることでハチが過重労働状態となり、コロニー自体が壊滅してしまうのだという。この過労死というものも、もっと大局的な意味での「予備」の不足と言える。つまり、生物が労働できる量には自ずと限界があり、それに対して一定のバッファを越えた状態が慢性的に続くと、かえって全体に悪影響を及ぼしてしまうということになる。
本書は純粋に生物学的なお話を述べた本なのだが「アリとキリギリス」の寓話に見るようにどうしても人間社会に適合したくなってしまう。なんとなれば、デスマーチを年がら年中繰り返しているブラック企業や、「優秀な社員」を集めたプロジェクトチームというのが実の所長期的に見て機能しないように、「予備」を考えない組織というものは成り立たないんじゃなかろうか。どうしても日本の組織というのは、頭の悪そうな学生にすら「要するに、体育会の部活なんですね」と言われてしまうほど、知性と理性が欠如した脳筋な社会であって、教養が欠如しているが故に(このような「予備」の概念を使うような士官というものは、大学の教養課程を終えている――すなわち一定の教養を持っているというのが大前提となる)平気で玉砕同然の組織運営を行っている。ひょっとすると(いや、ひょっとしなくても)今の日本の苦境というのは、本質として組織を運営しサバイブする能力が欠如した馬鹿者たちがのさばっていることが原因なんじゃないか? そんな社会学的な感覚さえ浮かんでくる。
まあ、そんな大上段に構えた話はともかくとして、非常にわかりやすくて読み易い本なので、是非とも教養の一つとして一読することをおすすめしたいと思う。

序章  ヒトの社会、ムシの社会
第1章 7割のアリは休んでる
第2章 働かないアリはなぜ存在するのか?
第3章 なんで他人のために働くの?
第4章 自分がよければ
第5章 「群れ」か「個」か、それが問題だ
終章  その進化はなんのため?
おわりに 変わる世界、終わらない世界

決戦下のユートピア(荒俣宏/文春文庫)


博学で知られる著者による第二次大戦下の日本におけるひとびとの暮らしを面白おかしく綴った一冊。
ぼく自身ミリヲタとして非常にアウトサイダーなヤツでありまして、兵器の話だとか戦術の話よりも、末端の飯炊き兵のはなしだとか輜重輸卒のはなしが大好きなわけであります。自然、たいがいのミリヲタとの交わりは疎遠になって、流通関係(輜重輸卒のはなしから、小行李・大行李、そして兵站、ロジスティクスへと発展していく)だとか著しきは米軍のマニュアル(これは神保町に専門の古本屋がある)なんぞを好んで買っては読みふけるという、何ともおぞましいドロップアウトミリヲタが誕生したわけである次第。
こんなぼく自身のヨタ話はどうでもいいのだが、この本もそんなアウトサイダーでドロップアウトしたミリヲタのぼくにとってはとっても楽しい本だ。何しろ「ユートピア」である。そもそも「ユートピア」という言葉がもとの本からして反語的意味を持つからして、どれほどのエピソードを読ませてくれるのかとワクワクしてしまう。そして、実際内容はびっくりするほど「ユートピア」であった。何しろ、のっけからロクデモナイ母親の話から始まるのである。どれほどロクデモナイ母親だったかは、是非手に取って確かめてみて欲しいが、読めば読むほど「こ れ は ひ ど い」と思わせる話で満載だ。
とはいえ、面白おかしいだけの本ではない。冒頭の一節は昨今の生真面目なのかバカ正直なのかよくわからない、青年連(もっとも本当に青年と云える年なのかは知らんが)にも是非読ませてあげたいことを綴っている。最後にこれを引用して結論に代えさせてもらおう。
「まあ、相撲でいうなら、腰を引いて左半身、といったところだろうか。ものごとはすべからく、半身がよい。ゆめゆめ、がっぷり四つ、になど組んではならない――、というのが、歴史を相手にするときの、自分流の心構えである」

ドラえもんの鉄がく(国際ドラえもん学会編/にっかん書房)


ドラえもんのもつ世界の広がりというのは、考えてみると色々そら恐ろしくなるほどだったりする。例えばロボット技術という観点では鉄腕アトムと並んで一つの目標になっていたりするわけだ。
また作品世界もスゴイ。ちょっと斜に構えたモノの見方で言えば、宇宙小戦争の構図なんて「軍VS警察(内務官僚)」ということもできるし、アニマル惑星で描かれたニムゲとの局地戦はまるでベトコンのような戦争を展開している。それどころか、鉄人兵団なんか一個班(分隊の半分)と戦車に相当するザンダクロス(実際は土木用大型ロボット)、それに改良型山びこ山によるアンブッシュ兼クレイモア地雷、そして即席落とし穴による塹壕構築とヘタな架空戦記顔負けの陸戦描写がある。
さて、こんな歪んだ視点で見なくても楽しめるのがドラえもんひみつ道具だ。困ったことを解決してくれる便利な道具とそれによって引き起こされる騒動は、まさに「センス・オブ・ワンダー」であり「すこしふしぎ」な物語を提供してくれる。
本書はそんなひみつ道具をテーマにした考察書だ。発行されたのが1993年と少し前だったこともあり、考察の前提としている部分にちょっと古さを感じさせるところもあったりするが、現代で実現している技術に思いをはせながら読むのもまた一興だ。例えば、吸音機はいまやノイズキャンセリングヘッドフォンとして現実のものになっているし、たんぼロールは最近「植物工場」という概念によって実現されようとしている。そういった「現代でも実現可能かもしれない」ものを当時の技術でどこまで可能か考察しつつ、実現したことを前提に書いている記述は興味深いし「科学技術」というものに対する入り口としてもなかなか悪くない内容だ。
一方で、「現代では実現不可能」なものについては、ちょっと残念なところも多い。もう少し実現するために可能な推論を含めて詳述して欲しかったというのが本音のところだ。また、東洋哲学が云々というあたりも、ちょっと安っぽさを感じざるを得ない。科学哲学という領域はそれはそれであって、もう少し真面目に取り組んで欲しかったところ。
ただ、それを補って余るほど前半部分の考察が面白い。それにひみつ道具を現実にするという観点での論考は安直な「謎本」(この頃「磯野家の謎」のような本が流行っていたのだよ)が横行していた時代にしては大変な労作だと思う。少し前の本だけあって見つけるのは難しいかもしれないが、類書も無いことだし機会があればぜひ一読してもらいたい。「科学技術」が意外と身近なものに感じられるかもしれない。