本日の更新(2018/07/16)
今朝はやや寝坊。朝食後昼前までダラダラと過ごし、昼飯を摂ってから着替えて出撃。
猛烈な暑さと空模様から予定をあまり消化せず帰宅。
帰宅してからはいつもの日曜日とあまり変わらず、といったところですね。
以下、どうしようもなくとりとめのないメモ。
戦力展開と「お上」
- いわゆる「お上」意識というものは一体いつごろからの話なのか、ということを風呂に入り尻をかきながらつらつらと考えていた。
- 極めてマクロな、要するに歴史的出来事の範疇ではなく、意識の問題であって、はっきりとした答えの出るものではない。
- ただ、それほど昔からの話なのかと言われると些か疑問は浮かぶ。
- なんとなれば、今日的にはあまり身近に存在しない「暴動」*1というものは、「歴史」に記される範囲で相当最近*2まで起きている。
- これはある種の戦力展開の要素もある。
- 戦闘を本分とするものであったとしても、槍間合いで十人ぐらいに囲まれれば、まあそれは普通に考えて勝てないからである。
- 当然、兵法はそれを生起させないために存在するわけだが、現実問題として中央以外――ことと次第によっては中央であっても――「お上」対「下々」の戦力不均衡は発生するわけで、それが暴発したときにどこまで短期間で制圧せしめることが可能か、と言われれば、交通手段が発展してそれなりの規模の戦力を展開できるようになる近代以前というのは、「お上」というものは比較的やりにくいものであった、とも考えられる。
金銭的封建主義
- 封建主義的な関係性がマネー的な間柄で生まれているという仮定をおくと、反封建主義的な経済活動を行う者が実のところ封建主義の枠組みのなかで踊っているという戯画的構図が浮かぶ。
- 言い換えれば「マネー」という力をもって封建主義的構造を打破しようとしている者は、本質的に封建主義的構造内での下剋上を目論んでいるに過ぎないということになる。
マネー主義国
- ある種の思考実験として、マネー主義的な小国家が成り立つのかということを考えてみる。
- 「マネー」の操作で「マネー」を増やすことを鑑みて、情報通信というものは当然にマネー主義国内で持たざるを得ない。
- 当然、ケーブルないしは衛星通信、電波通信ということになるが、いずれも対立する概念としての「貧民国」によって遮断し喪失させることが不可能ではない。
- 強いて言えば衛星通信あたりなのであろうが、これも結局の所、電波通信をもって行うわけで手段喪失を防ぐにはある種の「夜警」が必要となる。
- 最低限の「夜警」を行うにあたり、最大の脅威はおそらく戦力展開を飽和的に行われるという状況である。
- これ自体は別段思考実験だけではなく、現実的議論でもある。