伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

経営戦略の教科書(遠藤功/光文社新書)

 


経営戦略というジャンルはとかく「ハウツー」ものに堕してしまうものだ。とくに酷いのは自己啓発ものと悪魔合体してしまったもの。手段が目的となって、何の役にも立たないどころか読者に悪影響を与えるという意味で害にしかならないと言っていいだろう。
かといって、専門書を読むべきかというとそれはそれで問題がある。総花的に理論を展開しているのはいいのだが、結果として実際にどのように活用すべきか? という点で大変に食い足りないことになる。
両者をバランス良く扱った本が今まであまり無い中で本書はお手軽に入手できる理論とハウツーを併せ持った中々良い本だ。
ケーススタディをしながら理論を説明するというスタイルはオーソドックスではあるものの、必要とされる分野をほぼ網羅しており一読すればケツをかきながらコンサルがひりだしたクソ――もとい経営戦略とやらをコケにすることができる程度にはなるだろう。

議論のルール(福澤一吉/NHKブックス)


日本の社会に置いて議論という知的な作業はとりわけ脇に置かれる傾向が強い。周りを見渡してもよくわかるだろう。疑問に対して質問したとしてもそこに返ってくるものは「よけいなことを考えるな!」「自分で考えろ!」「俺の言うことに従え!」。ここに知的な要素は一切無く、上位下達の押しつけしかない。鹿児島というか薩摩国においてよく言われる言葉に「議を言うな」というものがあるが、まさにこれである。
これは日本という国が知性よりも脳筋的脊髄反射な言葉が飛び交っている一つの証拠である。正直、こんなことを続けていて、この先生き残れるとはとても思えない。本書は、そんな日本人に議論というものを行う上でのルールをインストールするものである。
本書の内容は至極真っ当な議論のルールを述べたもので、その紹介の仕方(国会答弁と爆笑問題の番組を取り上げている)も含めて何も文句をつけるところはない。但し、本書を読んで議論のルールをインストールしたところで、社会の中でとても活用できる状態ではないだろう。それどころか、返ってくるものはよくて罵声か叱責、悪ければ拳骨や解雇通知が返ってくるに違いない。日本という国はかように議論というものを放棄し、脳筋な世界観の中で回っているという極めて情けない国なのだ。
だが、だからといって諦観の中で沈没していくというのもあまり賢明な態度とは言えないだろう。ぼくたち若い世代がそういったものを明確に間違っていると認識し、そういう連中をどんどん少数派にしていくことで社会を変えていく。そういったことが大事だとぼくは考える。本書はそういった能力を身につけるために最適の一冊であると思う。

はじめに
序章  蔓延する不毛議論
第一章 ルールなき議論の現在
第二章 噛み合わない議論
第三章 「爆笑問題のニッポンの教養」を解体する
終章  わかりやすい議論をめざして
議論の前に脳内にインストールしておきたい二〇のルール
引用・参考文献
おわりに

自分で調べる技術(宮内泰介/岩波アクティブ新書)


インターネットの普及に伴って、「知っている」から「調べる」への置き換えが進んで久しい。かくいうぼくも、結構いろんなことを忘れながら生きていて、本を読んだり調べ物をしたりするとき、ウェブだの辞書だの、それに参考資料を探したりしながらやっていることが殆どだ。
ところが、その「調べる」の質はどうなんだろう? と思うことが、ままある。それこそ、まるで何も調べず、学ばず書き飛ばしているような言説が飛び交うのを目の当たりにすると、とてつもなくげんなりするのだ。それに日常生活だけの話だけじゃない。本来「調べる」ことをしながら学問を修めるはずの大学生ですら、よくよく調べもせず物事を見過ごしていることがよくある。それでいて、卒論となると真っ青な顔をして図書館や本屋を探し回るならまだマシで、担当教授に泣きついてテーマやら文献やら聞いて済ませるなんてフトドキモノも沢山居ると聞く。
本書は、そんな風潮に対して一石を投じてくれる。もともとは市民活動――みんなが忌み嫌うプロ市民もここには含まれるかもしれない――向けに書かれた調査についての本なのだが、そんなところだけに使うのも勿体ない。2004年に上梓されたこともあり、使う機材(今どきMDレコーダを探そうとしても結構困難だろう)やインターネット周りの話もちょっと古さを感じさせるところがあるが、図書を探したりそれを纏めたり、インタビューしたりといった部分は今でも十分通用する内容だ。
何かを調べる必要があるとか、論文を纏めなければならないといったシチュエーションだけではない。日常を過ごす中で疑問を持ったり、仕事をする中で調べ物をすることだって、当然あるはずだ。そういった時にこの本は役に立つだろう。

ウチのシステムはなぜ使えない(岡嶋裕史/光文社新書)


富士総合研究所を経て、関東学院大学で教鞭を執る著者による、ユーザ向けのIT解説本。
全般的に著者が経験したのであろう「あるある」ネタが豊富で、IT屋に関わるひとたちからすると、笑い(それが失笑なのか、それとも冷笑なのかは敢えて語らない)がもれること間違いなしの本ではある。ただ「ウチのシステムはなぜ使えない」と思っている当事者にとって役に立つかは別問題だ。
著者はある種「ハウツー」的に書いているつもりかもしれないが、残念ながらIT屋の首根っこを捕まえるにはちょっと能力不足と言わざるを得ない。システムを使うユーザからすれば、腹立たしいことこの上ないが、IT屋ってのは本当にロクデナシのクズしかいない。IT屋に日頃接しているぼくが言うのだから間違いない。ぼく自身、人生何でも屋で暮らしてきたこともあって、各方面にちょいちょい役立たない知識の固まりだけあって、IT屋の無知無能ぶりには時折愕然とすることがある。自分の業務経験が全ての輩(テメエのしょうもない自慢話が聞きたいんじゃない!)、経理系システムを開発しているのに経理関係を全く知らない輩(おまえさん、どうやって設計書書くつもりなの)、そもそも意味の通らない日本語が書かれたドキュメントを平気で通そうとする輩(小学校からやりなおせ!)、パワポばかり得意で中身は何にもない輩(紙芝居屋でもやったら)エトセトラエトセトラ。そんなロクでもないIT業界にユーザが立ち向かうには、とてもじゃないが、本書だけではどうにもならない。もっと、IT屋を言い負かすだけの知恵(そうだな、情報処理資格を全部取ったら十分だろう)と度胸(総会屋と渡り合えるくらいは必要だ)と人相の悪さ(これ、結構重要なのよ。IT屋って怖そうな客にはマジメに仕事するのよ)があれば、IT屋なんて怖くない。
だけど、そんなものって本当に必要なんだろうか? とちょっとだけ思う。
そもそもIT屋は敵なのか?
ぼくはそうは思わない。本来ユーザが自分自身の業務すらよくわからずに「システム作って」で丸投げして見るも無惨な業務フローになってるケースも、よく見る。IT屋がロクデナシのクズであるのと同様にユーザもロクデナシのクズであるんじゃなかろうか?
IT屋はIT屋で襟を正さねばならない。と、同時にユーザも自分たちの業務を見つめ直す際に、IT屋と話し合いながら本当にシステムが必要なのか考える必要があるだろう。それには当然IT運用屋とも話を詰める必要があるし、IT屋もそれに対応しうる体制にしなきゃいけないはずだ。
本書には残念だけどその答えは載っていない。というよりも、誰もこういった単純だけど面倒なことを考えようともしていない。だけど、本当は「ウチのシステムはなぜ使えない」が重要なのではなくて「ウチの業務はなぜ面倒なんだ」が重要なんじゃないかな。それを考えるきっかけくらいにはなる本だと思う。

現場主義の人材育成法(関満博/ちくま新書)


先日「必読」とまで言い切った「現場主義の知的生産法」(ちなみにこのタイトルは誤解をまねくイマイチなタイトルだと思う)の著者が送る「人材育成」についての一冊だ。ただ、ベタ褒めだった前作と比較すると不満が大きい。著者自身が認めているように「発展途上」の「メモ」的な感が否めない。正直色々と惜しいと思える部分が多い。
著者はしきりに「感動」や「思い」という言葉を使っているが、どうも読んでいて若干丸投げ感がするのが大変に残念。正直、前作と比較すると物凄く「他人事」に見えてしまうのだ。事例紹介についても、専門家ではないので仕方ないのだろうが、著者のコネクション紹介に終始している。正直それを読むことにあまりメリットを感じない。
一方で目を引く話はそれなりにはある。「『若い人を育てる』ための基本は、『常に彼らに関心を持ち続ける』こと」という言葉は、著者のゼミナールの隆盛を読む限りでは確かに納得させられるところではある。本書の中で、人を育てることにおいて、「先端」「関心」「指導者が現場の先端に身を置き続ける」ということを挙げているが、これには全力で同意したい。
と、同時に世の中でこれが出来ている(すなわち人材育成がうまくいっている)所が殆ど無いというのが、ある種今の日本の閉塞感そのものなのかもしれない。「関心」や「現場に身を置く」ことが出来ても、「先端」を知らないだとか、「先端」に居ても「関心」が無いとか、そんなケース、いくらでもあるでしょ。(え、どれもない。まあ、そういう三等管理職もクサるほどいますわな)
前作ほど無理に読めとまでは言えない。正直、イマドキの新書らしい本(正直筑摩書房に期待するレベルからするととっても残念な)と言うしかない。ただ、機会があれば拾い読みだけでもしてみて欲しい。人と関わる、育てるということの再確認にはなるはずだ。