伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

本日の更新(2018/04/19)

今朝は若干程度の寝坊。朝食後身支度のち出撃。

帰宅して夕飯。


以下、ごくごく断片的かつ個人的なメモ。

だいたい己が「早見え」のところがあるということに気づいてしまったのは、恐らくは四捨五入すると三十路に踏み入ったころなのであろうか。


良くも悪くも「中学校」がある種のリベラルアーツに対して極めて親和性の高い環境であったことは確かであろうし、「大学」についても一定以上は恵まれた環境であったことは間違い無いわけで、世間並み以上にはいわゆる教養なるものに触れる機会は多かったと思われる。断定ではなく、あくまでも推論として提示するのは結局のところこういった「学習」や「学問」を修めるということは、教育学を超えた領域になればなるほど個人的経験の集合であり、帰納的なものになってしまうからである。


それで「早見え」の話だけれども、往々にして宮仕えをするにおいては大概役に立たない。それどころか有害である。宮仕えに必要なのは、おおよそ「世間並み」の歩調で進むことであって「早見え」の世界と比較すれば、それはもどかしいほど劣後したものにしか感じられなくなる。終いには己の見えているものと現実の乖離に耐えられなくなりドロップアウトするのがオチというものだ。


もちろん、起業家としてカネを集めて商売を興すのであれば「早見え」は十分武器になるものの、それ以上にある種の社交性というものが求められるわけであり、「早見え」の世界に生きる人々にとってそれは比較的相性の悪いものであることは言うまでもない。なんとなれば「世間並み」の流れに対して「早見え」に意義を説き伏せ(場合によってはねじ伏せるのもありなのだろうが、それは往々にして悲惨な末路に陥ることになる。江副浩正氏や堀江貴文*1がまさにそれだ)る必要がある。


さらに個人的なことをいえば、私の場合「早見え」といっても数年程度でしかない。これは別に商売を云々できるほどの「早見え」では無く、かといって「世間並み」と歩調を合わせやすい程度でもなく、要するに漂う塵芥のようなものであろう。


「先進的」なコンピュータ技術というものに「早見え」を適用したときに、個人的に見えているものは数年後の若干衰退気味になっている世界(ガートナー的に言えばキャズムを超えた先の失望期)である。万能文化な銀の弾丸に思われた、IoTやら自動化技術というものは、実のところ「世間並み」が想起するほどには薔薇色の存在ではなくて、微妙に商売のタネになりそうなならなそうな、といった程度の状態で停滞する姿である。


実は、数年前はこれらの「先進的」な技術というものでは無いにせよ、テクニカルな世界に対する理解を進めなければ立ち行かないという強烈な焦りがあった。それ自体は「世間並み」との折り合いつかず、ついには恐らく絶望的な病に陥るきっかけの一つに過ぎなかったわけだが、時が過ぎてだいたいその焦りというのはそれなりに正しかったという結論に至っている。ごくごく個人的な「学習」によってある程度キャッチアップした現在はその焦りは意義あるものであったとは思っているが、それをもって現実に対して何かしら影響を及ぼすことが出来たかと言われれば、精々が地味な成果でしかなくて結局己の卑小さを自覚することにしかならない。


話が逸れたが、「先進的」なコンピュータ技術について。例えば恐らくだけれども自動車の自動運転のような技術が今すぐ(ないしは加速度的に)単独の存在で人間の代替をするというのは、とても難しい、と考える。理由は単純で、これらの分野で先進的なはずの航空技術がその段階に至ってないということが、その答えになる。航空機の自動運転――要するに自動操縦なのだが――は、現時点で理論上は離陸から着陸まで自動的に実現することは不可能ではない。ただし、それには空を飛ぶ航空機にとって非常に厳しい環境ではないということや、地上側の航法支援設備があるというのが条件になる。前者は特に離着陸時に特殊な事象が発生した場合、自動操縦システムがパイロット・フライング/パイロット・ノット・フライングのオペレーションを補うことこそ可能だが、それらを代替して対処可能か? と言われればそれはNoということになる。後者は自動車の自動運転技術に置き換えてみれば極めて示唆的で、恐らくは路側の支援設備を自動車の自動運転システムが絶えず連携を取ることで、相当な部分を実現可能ではあろう。なんとなれば、カメラやレーダーなどのセンサーとそれらを解析して運転システムにフィードバックする仕組みにおいて検知漏れ/誤検知しがちなものを、路側側の仕組みでより高精度に検知することで、適切なオペレーションを実現することが出来るからだ。


IoTやビッグデータについても、実のところある種、車輪の再発明的な側面がある。インターネットが人口に膾炙しはじめたころ、白物家電をインターネットにつなぐ未来というのが語られて、ある種キワモノとしてそれらしいプロダクトも出ていた。産業においても、センサーと連携した生産の仕組みというのは、実のところ(規模の大小という差はあれど)既に早いところでははるか前から実現している。いわゆるファクトリー・オートメーションというのがそれである。さらに遡るならば、CNC旋盤やCNCフライス盤、マシニングセンタというものもその嚆矢と捉えることが出来るのかもしれない。IoTやビッグデータが実現しようということは、本質的には現実の事象を数値化してフィードバックするというものであって、恐らくはCNC旋盤*2あたりがご先祖という考え方はそう突飛なものではないと思う。


先に述べた自動化技術というもののひとつのメモ書きは示唆的なものを含んでいると考える。すなわち、ごくごく短時間でリアルタイムの認知・判断・操作を求められるような環境においては、精度を上げることに様々な課題が存在するため、漸進的な進歩が必要となる。少なくとも、社会ないしは「世間並み」にとって有害ではないものであるためには。一方で、処理の後工程においてその誤りを検知してあえて手戻りさせることが可能な領域では、かなり容易に使えそうな気もする。


例えば、OCRという技術があるが、これの精度はどこまでいっても完全で完璧なコンピュータ様にはなれない。だが、そこに自然言語処理に基づいて誤りを検知するという検査工程を設けるだとか、プリミティブな簿記の仕組み上発生する矛盾を用いてチェックをするのであるならば、仕組みに仕立て上げることのハードルは低いのかもしれない。

*1:全くの余談だが、堀江貴文というひとがある意味で(ライブドア時代からすると不思議なくらいに)迂遠な商売のやり方を2018年現在やっているのは、氏としての「世間並み」との歩調合わせのようにも感じられる

*2:computerized numerical control