伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

煙草、ライターのこと(人生、この憂鬱なるもの)


人生はとにかく憂鬱なものである。世間を渡るにはろくでもないことにも耐え、思わず顔をしかめたくなる出来事を忍び、孤独の中を「居きる」よりほかない。「居きる」は「生きる」に通じ、人は多かれ少なかれ自らの中に他社を拒絶するという憂鬱の中にその身を置かねばならぬ。
その憂鬱に若干の悦びをもたらす小道具について、多少のスノビズムを交えて述べていきたい。
さて私は喫煙者である。昨今、これだけで人権を剥奪されかねない情勢だが、事実なのだから仕方がない。健康への害やら臭いやら、ほうぼうから叩かれる始末である。まさに「煙草飲みを見たら泥棒と思え」式の議論になっており、喫煙者としてはまことに肩身が狭い世の中である。
百害あって一利なしということは百も承知で、世間に背を向けるでもなく迎合するでもなく煙草を飲み続けている次第である。何も快楽の為だけではなく、それが自らのスタイルだからである。
煙草は両切りに限る。これが私のスタイルである。とある作家は「細巻き煙草に限る」ということを言っていたが、それはそれでその御仁のスタイルなのだろう。それは尊重するが、私にとっての煙草は両切りのどっしりとした吸い味のものと相場が決まっている。愛飲しているのは、ゴールデンバットである。この煙草、昨今のたばこ税の値上げの中でもひと箱20本入りで200円の格安であり、最近吸い始めたという御仁も多いようだが、私がこれを愛飲するのは別に安いからではない。三等煙草らしいややピリリと辛い吸い味の中に、両切りのどしりとした豊かな煙が含まれて何とも言えない味になる。これをやや背を丸めてくわえると、寂漠たる荒野の中に身を置く心持ちになる。両切り煙草を知らない読者の為に言うと、ここでの「くわえる」とはフィルター付きの煙草のように、唇で噛みしめるようなくわえ方ではない。そっと唇で支えるような、優しいくわえ方でなければならない。さもなくば、煙草の葉が口の中に押し寄せ路面に唾することとなるであろう。かように面倒なところが、良いのである。
そして、これに火をつけるのはジッポーのライターをおいて他にあるまい。これをロンジンだのダンヒルだのを使って火をつけるのはただの嫌みであるし、さりとて100円ライターではあまりにわびしすぎる。マッチは悪くないが不便でかさばるし、着け終わったマッチがあまりに邪魔だ。簡便でかつスタイルに似合うという意味でジッポーは最上のものだ。
その素性はもともと米軍の兵士たちが、戦場で簡便に煙草の火種を得るために用いていたというものであるが、今日においてもその機能性がもたらすある種の美学は色あせていない。それどころか、メインテナンスさえしていれば、いつまでも使えるものなど最近ではあまりないのではなかろうか。ちょうど、機械式のスティル・カメラが部品さえあればメインテナンスできるのに対して、一昔前の電子部品が大量に使われたコンパクト・カメラが補修不可能になるのと似たものを感じるのである。
オイルライター特有の油臭さも煙草の風味の一種となり昇華される。葉巻煙草を吸う御仁にはこの油臭さが雑味となるのであろうが、安煙草には関係無い。むしろ、独特のある種の孤独感を演出するあたり大変に好ましいものである。
安煙草にせよジッポーにせよ、小物としては大層安いしろものではあるが、それでも「居きる」には充分にしてそれなりの愉悦をもって居られるものである。喫煙という行為が嫌煙される世の中ではあるが、それでも私は煙草を吸い続ける。自らの「孤独」という憂鬱を飼い慣らすがために。