伊達要一の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

学問と「世間」(阿部謹也/岩波新書)


「学問」が不当に扱われる世の中である。いきなり何を言うのかと思うかもしれないが、実際問題として大学で学問を修めるにあたり実質的には3年余りしか時間が与えられない(いわゆる「シューカツ」というやつのせいだ)状況は「学問」をなおざりにしていると言っても過言ではない。個人名は挙げないが「大学での「学問」は社会に出てからは関係ない」式のことを言い漏らす経営者がいるような時点で、色々お察しというようなものである。
でも、実際「学問」ってそんなに不必要なものなんだろうか? それでは大学というものが何故存在するのだろうか? それこそ、かつての毛沢東やポル=ポトのように、インテリゲンチャをみんな下放して原始共産制のようにしてしまった方がいいのではなかろうか? この疑問に対しまともに答えを持つものは、多分居ないが居るだろう。この矛盾した答えの謎は極めて単純なものである。本音の部分としては「学問」なぞ余裕のある話だ、そんなことをする前に働けというものだ。そして建前としては、西欧にならって国家制度を成り立たせてきた日本という国において「学問」をおろそかにすることはできない。この本音と建前の矛盾こそが、このように「学問」が不当に扱われるようになった遠因ではないだろうか。余談だが、そういった意味では先述の財界人の発言は二重の意味で失言と云える。一つはもちろん学問というものを軽んじた、あまりに迂闊で知性の無い発言であること、そしてもう一つは、経営者というある種建前の世界に生きる人が公の場で本音を漏らしたということである。むろん、この経営者が表だって咎める者は居ないだろうが、知性の欠如した人物であることは否定できないだろう。
さて、本書はこの本音と建前を形成する「世間」と学問について、欧州の〈生活世界〉と学問との関係性と比較しながら論じた一冊だ。本論としてはそこから「生涯学習」についても述べられているが、そこにあまり価値は無い。むしろ「世間」というものと欧州の〈生活世界〉との比較――そしてそれらとの学問の関係性が中心に述べられており、そこに著者の専門である欧州中世の社会史のパースペクティブが効いている。
本書は新書で、比較的平易かつ手軽な本であるがそこで述べられている内容は決して「新書的」なものではない。どちらかといえば、もっと本質的な――いわば学問的な内容である。万人が読んで何か良いものを手に入れられるかと言われれば、それはNoだ。おそらく世の中の大部分の人が本書を読んでも小難しいことを書いているだけと思うだろう。
ただ、ここで述べられている世間というものと学問の関係性は決して古びるものではないし、教養として持っていることはとても大事なことだと思う。特に、日本人が「学問」として認識しているものが〈生活世界〉に対して本来は延長線上にあるということ、そして知ったかぶっていることを真に考えるということの重要性は、こと今日ウェブという空間で飛び交う空虚な言葉を切り払うためにも重要だ。
個人的には同志社大の三輪教授のエピソードが、明星大の関教授の調査手法と重なり非常に印象的であった。このエピソードを読んだだけでも本書を読んだ価値はあったと思っているし(若干口はばったいけども)世の中に紹介するに値する一冊だと確信している。

まえがき

第一章 日本と西欧における人文科学の形成――世間と個人――
 第一節 日本の人文社会科学者たちはどのようにして養成されてきたか
 第二節 西欧における個人の起源と人文諸科学の展開

第二章 日本の学問の現在
 第一節 日本の学問の形と教養概念
 第二節 人文諸科学は他の学問とどのような関係をもっているか
 第三節 大学や大学院でもは何が行われているか
 第四節 研究と教育はどのようにして支えられているか

第三章 フッサールの学問論と日本の「世間」――〈生活世界〉の発見――
 第一節 フッサール現象学における〈生活世界〉とは何か
 第二節 〈生活世界〉の刑法学
 第三節 〈生活世界〉としての「世間」

第四章 日本の学問の課題――〈生活世界〉の探求――
 第一節 家政学の現在
 第二節 〈生活世界〉の中の教養
 第三節 合理的な近代化のシステムと歴史的・伝統的システム(「世間」)の狭間で
 第四節 学問の再編成に向けて――大学の役割

あとがき
参考文献