伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

技術大国幻想の終わりーーこれが日本の生きる道(畑村洋太郎/講談社現代新書)

大変久しぶりであります。いちおうこのブログは「書棚」と書いている通り書評をウリにしているハズなんですが、いつの間にか全くやらなくなってしまったので、再開したいと思います。

多少生産技術や機械工学に足を突っ込んだひとからすれば、畑村洋太郎氏を知らないのは要するにモグリといえよう。ちょうどコンサルタント界隈で関満博*1を知らないのがモグリと云われるのと同じくらいと言って過言ではない。
失敗学に関しては生産技術関係だけではなくて、システムエンジニアリングの世界でもかなり有名になってきて、かなり耳にする機会も多くなってきていたり、東京電力福島第一原子力発電所事故に関しては事故調査・検証委員会の委員長も務めていて、産業・学問の領域を超えたある種著名人にまでなっていると言ってもよいだろう。

それだけに書店で本書を見かけた際に期待があまりに大きかったわけだが、正直期待はずれであった。

*1:明星大学教授。フルセット型産業構造を超えて 東アジア新時代のなかの日本(中公新書)と現場主義の知的生産法(ちくま新書)はいかなる業界関係者でも一読の価値がある名著

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Papa told me(榛野なな恵/YYコミックス)


「日常系」という言葉がマンガ評論の中で用いられて久しい。その嚆矢としては「あずまんが大王」だったり最近で言えば「ゆるゆり」なんかがそうだ。例示する作品が偏っている気がするが、まあ気にしないでおこう。
ただ「日常系」というタームが用いられる前にもこのような作品は数多く存在する。例えば「究極超人あ~る」なんかは、ある種80年代の「げんしけん」のような、オタク高校生の日常を描いたものであるし、それつながりで言えば一本木蛮がウェブ上で連載している「同人少女JB」なんかもある種の「日常系」と言えるだろう。かように、実の所評論のコンテクストで用いられる「日常系」というのは多分に恣意性があって、本当はマンガの中でもこの種の作品はメインストリームのひとつなのではないかとぼくは思っていたりする。
そんな広義な「日常系」の作品として、今日は本書を取り上げたい。
父と娘の二人の「日常」を中心にストーリーが進んでいく本書は、そこに何一つ前進するべき物語は無い。ただ「日常」を切り取った出来事が連作の形で表現されているだけだ。むろん、比較的年齢層が高い女性向けということもあって、その背景にあるものは意外とドロドロとしている。作家の父親は人妻に惚れてある種寝とるような結婚をしていたり、明らかに女遊びをしまくっているだろうって作家が出てきたり。ただ、ちょっと書き方を間違えば吐き気を催すこの種の題材をここまで「おとぎ話」チックに書き上げてしまう筆者の筆力はさすがと言わざるを得ない。
ぼくのようなゲスな人間には、なかなか直視するのが辛いマンガである。正直睡眠薬と抗鬱剤でふわふわした気分、スローなフレンチポップスでも聞きながらでも無ければちょっと読めない。そして読んだら読んだで、薬の効果が切れたあたりで自らのゲスな内面に嫌気がさしてしまう。正直「日常系」と言うには別の観点でハードルが高いとぼくは思う。
だが、ここで描かれている「日常」は実はけっこうヘヴィであったりもする。ことに、庭付き一戸建てを郊外に持った父親が、その重さから自分の選択を後悔するエピソードなんて読んだ日には「所帯なんざ持ちたくない」と痛烈に感じてしまったものだ。
「日常」というのは「日常系」で描かれるほど奇麗でも美しくも無い。ドドメ色か良くて灰色にのっぺりを塗り込めたようなシロモノだ。だが、それをある種の「日常系」として描いたものがあるということを知る意味でも本作は読む価値がある作品だと思う。

靴ずれ戦線 魔女ワーシェンカの戦争(速水螺旋人/Ryu Comics Special)

 
独ソ戦というと日本においてはドイツ側からの話が多くなっている印象がある。そりゃあ、ソ連側の話題となるとどうしても玄人好みになってしまうし、多士済々のドイツ側を取り上げた方が商売的にもいいわけでわからんでもないが、ソ連萌えの偏ったひとたちからするとちょっと寂しいところではある。
本作はそんな独ソ戦をソ連側から、しかも伝承を交えた形で描いた作品だ。なんというかあまりにハードルが高すぎだろとか思うわけだ。だいたいバーバヤガなんて元ネタがわかるやつが日本に何人居るんだという話である。
だが、これがとんでもなく面白いのである。ロシアの魔女ワーシェンカとNKVDの眼鏡っ娘少尉ナージャのどたばた珍道中をメインにしながら独ソ戦を描いている。どちらかといえば独ソ戦のミリタリ成分よりも伝承を交えたオカルト要素の方が多く、ミリタリ関係に弱い人でも大丈夫な作品だ。
また、速水螺旋人さんの特徴でもある法螺話要素も満載。ここのところ、重たい話題の本ばかりが続いていたので、ちょっと箸休めに読んでみると大変に楽しい一冊だと思う。

ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版(服部正也/中公新書)


物語というものにはいくつかの定型――テンプレート的なものがある。その中でも、ボロボロになった組織を立て直しハッピーエンドというものは色んな媒体で書かれている。一般的な中間小説もそうだし、オジサン向けの企業小説はおろかライトノベルでも(若干アレンジはされているけど)扱われている。
本書は名著として知られている一冊だ。だが、単純にそういった先入観で読むよりもむしろこういった「物語」の一つとして読む方が楽しめる。
本書で描かれているルワンダは、独立後の混乱からシッチャカメッチャカの状態だった。旧宗主国のベルギー人はタチ悪く振る舞い、ルワンダ人に偏見の目を向けながら暴利をむさぼる。政府の保有する外貨は底を尽き、中央銀行は業務をよく知らない連中ばっかり。挙句の果てに「主人公」である著者が赴任するときに援助の対価として通貨の切り下げまでIMFに要求される始末。ありていに言ってしまえばどん底の状態だ。
そんなどん底から「主人公」がどのように戦っていくのかは本書を是非読んでほしい。扱われている内容は中央銀行の業務を越えて、一国の経済を立て直す方策まで含まれており極めて小説的に楽しめる。内容もとても平易なものだ。「中央銀行のあるべき姿」という所について本書を通じて論考している向きもあるが、もちろんそれは否定しない。だけど一人の「主人公」が組織を立て直していくという「物語」としてとらえても十分に楽しめるものになっているとぼくは思う。
さて、この物語であるが決してハッピーエンドにはなっていない。皆様もご存じの通り、ルワンダにおける民族対立によって民族虐殺――ジェノサイドが行われ悲惨な状況に陥ったのだ。事実、本書の増補として著者本人によるこの紛争についての論考が載っており、本来「ハッピーエンド」で終わるはずの物語が苦いものになってしまった悲しみに満ち溢れていると言える。
だが、国というものは決して単なる物語によるものではなく、延々と続く現実の延長線上に存在する。そういった意味では、この苦い出来事も一つの現実であり受け入れなければならない。逆に言えば、この民族虐殺の出来事という点を延々と引きずることで塗炭の苦しみを続けるようなことがあってはならないのである。
ルワンダの紛争についてかつて宮嶋茂樹さんがルポルタージュしているのだが、彼はその中でルワンダについてボロクソに書いている。確かに当時のルワンダの現状の一つではあるのだろう。実際に現地で取材した人物の書いていることは、それはそれで一つの事実ではある。しかし、そこにある種の偏見が混じっていることは否定できない。本書の「主人公」である著者がその場に居たのなら――おそらく全身全霊をもって戦った敵の一つとなったであろう。
日本においてアフリカという地域は、どうしても後進国であるという偏見を持ってしまう。また、現実として経済的に発展途上の段階であるのは否定できない。しかし、その渦中に身を置いて戦った日本人が居たということは決して忘れてはならないし、ぼくらもその身になって考える習慣を持つ必要があると思う。
ここまでは、マジメな話でちょっと余談としてヨタ話を。
本書は1972年に初版が発行されて長らく絶版となっていた。ところが、2009年にその後の民族紛争を増補し再版された。この時に企画協力をしたところがふるっているのだ。
なんと、TRPGで有名な冒険企画局というところなのだ。ぼく自身、ここの「サタスペ」というゲームが凄い好きでここのイラストを多数提供している速水螺旋人さんを追っかけているわけなのだが、まさか関わっているとは全く知らなかった。こんな比較的お堅いテーマの本にあの「サタスペ」のところが! というのは何とも痛快ではないか。この事実を知ったとき、思わず爆笑してしまった。
そういう意味ではTRPGのゲーマーも一つのゲームのリプレイ――そうだな、バナナ共和国を立て直すなんてゲームなんかどうだろう――を見る感覚で読んでいただければ、大変によろしいかと思う次第。

まえがき
Ⅰ 国際通貨基金からの誘い
Ⅱ ヨーロッパと隣国と
Ⅲ 経済の応急処置
Ⅳ 経済再建計画の答申
Ⅴ 通貨改革実施の準備
Ⅵ 通貨改革の実施とその成果
Ⅶ 安定から発展へ
Ⅷ ルワンダを去る
<増補1> ルワンダ動乱は正しく伝えられているか
<増補2> 「現場の人」の開発援助哲学 大西義久
関係略年表

働かないアリに意義がある(長谷川英祐/メディアファクトリー新書)


パレートの法則」という言葉がある。法則と言われているが実のところただの経験則というのが実態と言えるのだが、ともあれ世間ではよくよく使われている。これは「社会では少数の人間・事象が全体的な動きを支配し、大多数を占める部分は小部分が動かすにすぎない」というものである。よく80:20の法則とも言われている。さて、本書の「働かないアリ」の話である。実はアリにもこのようなことが言われていて、アリのうち2割は働かないアリだと言われている。さらに言うと、働く8割だけを取り出してみても次第にまたこの中の2割が働かなくなるそうな。よく、この部分だけを取り出して訳知り顔で後輩あたりにひけらかしているオッサンが居そうだが、まあよくある小ネタである。
本書はそんな小ネタの領域に留まらない、生物の進化や役割というものをかなり平易に解き明かした面白い本である。
この働かない2割のアリ、別にサボっているわけではない。仕事量が増えた際に応援として労働に参加するから働いていないのだそうな。本書ではこれを「反応閾値モデル」という言葉で説明している。こういった考え方は軍事クラスタならピンとくるのではないだろうか(いや、銃器だけ見てるような向きは違うだろうけど)。そう、軍事における「予備」という概念だ。戦場において(よっぽど小さい戦術ユニットでもない限り――それでも極力確保するように一定以上の階級ならば教育されるのだが)必ず戦線に張り付かせてない戦力――予備を確保する。この予備は一見仕事をしていない、将棋で言う「浮きゴマ」のように見えるのだが、例えば敗勢になったときに側面からの攻撃で使って撤退を支援するだとか、勝勢になったときにとどめに使うといったやり方をする。もっと詳しく述べるとあまりに専門的になるので大雑把な説明になるが、意義があるものなのだ。このアリの「反応閾値モデル」はまさにこの「予備」の考えとマッチするものなのだ。
さらにもっと面白い話がある。ミツバチを温室の中で使っているとハチが「過労死」してしまうのだそうだ。つまり、労働時間・労働量が増えることでハチが過重労働状態となり、コロニー自体が壊滅してしまうのだという。この過労死というものも、もっと大局的な意味での「予備」の不足と言える。つまり、生物が労働できる量には自ずと限界があり、それに対して一定のバッファを越えた状態が慢性的に続くと、かえって全体に悪影響を及ぼしてしまうということになる。
本書は純粋に生物学的なお話を述べた本なのだが「アリとキリギリス」の寓話に見るようにどうしても人間社会に適合したくなってしまう。なんとなれば、デスマーチを年がら年中繰り返しているブラック企業や、「優秀な社員」を集めたプロジェクトチームというのが実の所長期的に見て機能しないように、「予備」を考えない組織というものは成り立たないんじゃなかろうか。どうしても日本の組織というのは、頭の悪そうな学生にすら「要するに、体育会の部活なんですね」と言われてしまうほど、知性と理性が欠如した脳筋な社会であって、教養が欠如しているが故に(このような「予備」の概念を使うような士官というものは、大学の教養課程を終えている――すなわち一定の教養を持っているというのが大前提となる)平気で玉砕同然の組織運営を行っている。ひょっとすると(いや、ひょっとしなくても)今の日本の苦境というのは、本質として組織を運営しサバイブする能力が欠如した馬鹿者たちがのさばっていることが原因なんじゃないか? そんな社会学的な感覚さえ浮かんでくる。
まあ、そんな大上段に構えた話はともかくとして、非常にわかりやすくて読み易い本なので、是非とも教養の一つとして一読することをおすすめしたいと思う。

序章  ヒトの社会、ムシの社会
第1章 7割のアリは休んでる
第2章 働かないアリはなぜ存在するのか?
第3章 なんで他人のために働くの?
第4章 自分がよければ
第5章 「群れ」か「個」か、それが問題だ
終章  その進化はなんのため?
おわりに 変わる世界、終わらない世界