ガッデム(新谷かおる/MF文庫)
モータースポーツというのはいつの間にか日本ではかなりマイナーなものとなってしまった。F1は地上波での放送が無くなってCSに移行しちゃったし、SuperGTもそれなりに人気はあるものの、どうしてもコアな連中だけに支持されている感がある。それに、日本でやっているというのに、実況中継は相変わらず地上波ではない。ヘンな再放送とかゆるいバラエティを流すよりも、よっぽど面白いものなのにと隠れモータースポーツファンのぼくとしてはほぞを噛む思いだ。
さらにラリーとなると…… もうこれはお察しのレベルだ。昔は日本でもラリーがちょこちょこ行われていたが、今となってはもうやっていない。それどころか、スバルのインプレッサが一人気を吐いていたのも昔の話だ。寂しい限りである。
でも、ラリーってとっても面白いものなんだよね。サーキットという、ある意味クリーンな環境ではなくて、普通のクルマが走るような道を突っ走る。クルマの本当の実力をはかるという意味では、物凄く意義深いしエキサイティングなものなんだ。
本作はそんな自動車ラリー競技を取り上げたフィクションだ。外国メーカーは実在するものを使っているけども、国内のメーカーは一応架空のものとなっている。でも、ちょっと読めばどこの会社がモデルかは大体想像がつく程度のもじりだから、コアなファンからするとクスリとできるかもしれない。
自動車ラリー競技というのは、物凄くもどかしいものだ。普通のレースであれば、一番最初に到着したヤツが勝つというとってもわかりやすいものなのだが、そうはいかない。点数とタイムで争われる競技だから、すべてのクルマが帰ってくるまで結果が出ないなんてこともありうる。そこがわかりにくい、マイナーなものにしている原因の一つなのかもしれないが、本作を読むとそれがまさに魅力だということがわかる。複雑なレギュレーションの中、ドライバーだけじゃない各チームそれぞれが力の限りを出し尽くすことが勝利につながるということが、とても複雑で興味深い人間ドラマを描き出すことになる。本作はその魅力を十分に書き記していると言っていいだろう。
若者の自動車離れと言われている。その実は自動車メーカーをはじめとした連中の自業自得(若者が十分な可処分所得を得られない状況と、ムダに高い維持費、それにほかの娯楽に勝つだけのPR不足)なんだけども、それでも自動車というメカはとても面白いものだ。こういった作品から自動車というものに興味を持ってくれると非常にうれしい。
砂の薔薇(新谷かおる/白泉社文庫)
PMC(Private Military Company)というものがある。簡単に言ってしまえば傭兵とかの派遣会社のようなものだ。ずいぶんと昔からこれに類するものが存在していたが、最近イラク戦争とかの関係で注目されるようになってきた。もちろんこの注目は基本的にはネガティブな文脈で語られることが多いのだが、現実的に自国軍で手が回らないところが多い昨今(とくに歩兵戦力は政治的理由もあってなかなかフルには難しい)必要悪のようなところはある。
本作はそんなPMC――CATに所属する美しい女性たちのテロとの戦いの物語だ。空港爆破テロで夫と子供を失った主人公、真理子・ローズバンクを指揮官とした傭兵部隊がテロをぶっ潰して回るという筋書きである。
あくまでもフィクションであるという前提が必要ではあるが、PMCというものに着眼した著者の発想には瞠目せざるを得ない。何しろ本作は1990年代初頭に書かれたものなのだ。まだまだPMCというものが一般的には未知なるものだった時代に、ここまで精緻に物語をくみ上げるとは、いやはや驚きである。
さて、対テロを主任務とするPMCを舞台にしている以上、それについて考えなければならない。彼女たちはテロを憎む。それは、政治的要求を通すために罪のない一般市民、とりわけ子どもたちが犠牲になるということが許せない、と物語では述べられている。なるほど、PMCというものが持つ影の部分にあまり言及せず主人公たちをある種の「正義の味方」とするには巧い筋書きである。
無論、テロ行為というのは非常に嫌らしい「犯罪」である。実際、つい最近のボストンマラソンでのテロでは、子どもが犠牲になるなどしたし一般市民も巻き込まれたと聞く。だいたい、ふつうのこういったイベントでドンパチやられた日にはたまったものじゃない。はっきり言って迷惑極まりない。若干下品かつ冒涜的な比喩をお許し願うならば、バキュームカーを歩行者天国に持ち込んでうんこをまき散らす以上に迷惑な行為だ。爆弾テロなんかやられた日にはうんこが臭いとか言ってる場合じゃないわけだし。
ただ、本作を読んでいるとどうしても対テロという立場からの独善を感じざるを得ない。実際、テロという手段を用いねば政治的主張そのものが無視されている立場のひとたちはどうするんだ? という疑問が浮かんでくる。例えばパレスティナにおけるイスラム過激派なんかもその一つである。松本仁一さんの「ユダヤ人とパレスチナ人」にもある通り、現実的にイスラエルによって「圧政」を敷かれているパレスチナ人はその現実を受け入れるしかないというんだろうか? そりゃ、テロという行為がタチの悪い「犯罪」であることは言うまでもない事実だ。だけども、それをしなきゃやってられないというもう一つの事実はどうなるんだろう。実際本作でそういった複雑な事情を抱えた地域での物語は一切ない。実際、著者も書ききれないだろうし、物語としても非常に重苦しい、エンタテイメントとしてはつまらないものになってしまうからだろう。それは仕方がない。だけども、そういった批判的パースペクティブをどうしても私は持ってしまうのだ。
エンタテイメントとしては(連載が青年誌だったということもあり、多少エロティックな描写が多いのは事実だけども)一級品で、純粋に楽しめる作品ではある。ただ、これを読んだときに多少なりともこういった別のパースペクティブを持てるだけの多様性と教養は持ち合わせて欲しいとぼくは思う。
日本人のためのアフリカ入門(白戸圭一/ちくま新書)
アフリカといえばどのようなものを連想するだろうか。紛争? 飢餓? 貧困? 部族対立? 汚職や不正? たしかにこれらはアフリカという地域の一つの側面である。一時期コピペネタとして「ヨハネスブルグのガイドライン」なるものが流行った時期がある。今ではある意味ジャーゴンとして消化されているが、そこで述べられているヨハネスブルグというのは、それはそれは酷い街のように印象を受ける。ここにそれを引用してみよう。
・軍人上がりの8人なら大丈夫だろうと思っていたら同じような体格の
20人に襲われた
・ユースから徒歩1分の路上で白人が頭から血を流して倒れていた
・足元がぐにゃりとしたのでござをめくってみると死体が転がっていた
・腕時計をした旅行者が襲撃され、目が覚めたら手首が切り落とされていた
・車で旅行者に突っ込んで倒れた、というか轢いた後から荷物とかを強奪する
・宿が強盗に襲撃され、女も「男も」全員レイプされた
・タクシーからショッピングセンターまでの10mの間に強盗に襲われた。
・バスに乗れば安全だろうと思ったら、バスの乗客が全員強盗だった
・女性の1/3がレイプ経験者。しかも処女交配がHIVを治すという都市伝説から
「赤子ほど危ない」
・「そんな危険なわけがない」といって出て行った旅行者が5分後血まみれで
戻ってきた
・「何も持たなければ襲われるわけがない」と手ぶらで出て行った旅行者が靴と
服を盗まれ下着で戻ってきた
・最近流行っている犯罪は「石強盗」 石を手に持って旅行者に殴りかかるから
・中心駅から半径200mは強盗にあう確率が150%。一度襲われてまた襲われる確率が
50%の意味
・ヨハネスブルグにおける殺人事件による死亡者は1日平均120人、
うち約20人が外国人旅行者。
また、これもある種ジャーゴン的に消化されているが、一時期ジンバブエのハイパーインフレもネタになった。これがネタになる言論空間のなかでは、ジンバブエの愚かな政策を揶揄し嘲笑することをみな前提として、それぞれの持論を展開するという、ある種頭の痛くなるような構図が存在していた。
このようにアフリカというのは、日本人からすれば極度にネガティブなとらえ方をされている地域である。
一方で近年では資源をめぐって中国が活発に活動をしていることから、日本もバスに乗り遅れるなとばかりに外交を展開すべき、という意見もある。
本書はそんなアフリカという地域に対するネガティブな見方や一面的な見方を諌める一冊だ。
日本から見たアフリカというのは実の所「遠い国」であり、毎日新聞で特派員をやっていた著者も新聞紙面に記事を載せるべく悪戦苦闘していた。結果、そこで起きることは欧米で大々的に取り上げられた段階で記事になるという「後追い報道」である。本書を読んでいて特派員としての筆者の苦悩がよく伝わってくる。また「あいのり」のヤラセ疑惑について触れているところについては、日本サイドの上から目線に釈然としない筆者の心情に自然と感情移入してしまう。
実際の所、アフリカという地域全般を一言で切ってしまおうとすることは傲慢極まりないし、松本仁一のアフリカに関する著作を読んでいてもあまり適切ではないことは自明である。だが、現実的に(物理的にも、政治的にも)遠いことは事実であって、もどかしさを抱えながらも一括りにせざるを得ない部分がある。
じゃあ、どうすればいいのか? ここで一言で言えるほど簡単な問題じゃない。理想論を言えば、ひとりひとりが知識を備えるということなのだろうけども、世の中を見渡してみてもそれはあまり現実的ではないと思う。ただ、知識を得ようとする、実態を知ろうとする努力は必要なことは当然のことだ。ましてや、先述したコピペやネタをもって、ただただ嘲笑するような態度は賢明ではない……というかむしろ愚かだとぼくは思う。
本書がアフリカの現実を余すところなく紹介した一冊だとは言えない。残念ながら新書本らしい軽さがあることは否定できない。ただ、本書のような本、そして本書で紹介されているような本を読んで知識を得ることで、より懸命になろうとする態度こそが今のぼくたちにできる最大限の努力だし、知性というもののあらわれなのではないだろうか。
やや長めの「まえがき」
第1章 アフリカへの「まなざし」
1 現代日本人の「アフリカ観」
2 バラエティ番組の中のアフリカ
3 食い違う番組と現地
4 悪意なき「保護者」として第2章 アフリカを伝える
1 アフリカ報道への「不満」
2 小国の内政がニュースになる時
3 「部族対立」という罠第3章 「新しいアフリカ」と日本
1 「飢餓と貧困」の大陸?
2 「新しいアフリカ」の出現
3 国連安保理改革をめぐる思惑
4 転機の対アフリカ外交終章 「鏡」としてのアフリカ
1 アフリカから学ぶことはあるか?
2 「いじめ自殺」とアフリカ
3 アフリカの「毒」アフリカについて勉強したい人のための一〇冊
あとがき
鉄道地図は謎だらけ(所澤秀樹/光文社新書)
鉄道地図にまつわる雑学を集めた本。特に路線名称だとか会社境界などの細々した話は興味深かった。本書のような鉄道雑学ものは、それ単体では鉄道マニアの知識の羅列になりがち(本書も残念ながらそのそしりを免れない)ではあるが、そういった細々した知識があると別のところで思わずニヤリという経験ができることが、ままある。そういう意味でも知識ってぇのは大事なのだ。
これを読んでいてふと銀河鉄道999を思い出した。銀河鉄道999に出てくる銀河鉄道株式会社自体が国鉄を元ネタに引いている為、××管理局とか人類駅(民衆駅を元ネタにしている。停車する惑星側が出資して作った駅との由)といった用語が出てきて、思わずニヤリとさせるのだ。
そうそう。管理局といえばどこぞの圧政的な魔法による軍事組織というのが最近の通り相場になっているようだが、国鉄の「管理局」という用語を知っていると、色々と不穏な妄想が脳裏をよぎって思わず愉快になってしまう。
かように、いささか鉄道マニア向けの知識が詰まっているような本であっても、こういった一般向け新書で上梓されて知識として流通されることは好ましいことに違いない。好ましからざるものどもを嗤うためにも。