伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

ブレーメンⅡ(川原泉/白泉社文庫)

   
川原泉というと短編に定評のある作家という印象がある。というか、長編を書ききる体力があんまりないという表現の方が適切だろうか。実際、メイプル戦記も休載を連発していたし、続き物のエッセイ漫画である「小人たちが騒ぐので」も最後の方はボロボロだった印象がある。だが、そうはいっても凡百の漫画家には及びもよらないストーリー構成力はさすがだ。実際、長編は書けても短編がダメな漫画家は一杯いるわけで、あとはアシスタントとの分業をどうするか、というマネジメントの部分をもうちょい編集がサポートしてやればもっと多作になるのに…… と大変惜しい気分に陥ってしまうのはぼくだけだろうか?
さて、本作はその川原泉による長編SFマンガである。SFといっても、ややこしい話ではない。あくまでもSFは道具立ての部分だけであって、基本的にはコメディタッチの読み易い作品だ。このお話の中で「ブレーメン」という動物を改造したものが出てくる。そんな動物たちに主人公であるキラ=ナルセ船長は当初不信感を抱いているが、次第に彼らが同じ船を動かす仲間だという認識に変わってくる。そういった、言わば差異に対する認識の変化というところが物語の根幹となっている。この部分が評価されてなのか、第四回(2004年度)のセンス・オブ・ジェンダー賞の特別賞を受賞していたりもする。実際、物語としてはさすが川原泉と思わせる、読ませるものになっているしこの受賞自体をそれほど非難するつもりはない。だが、敢えてぼくは批判的な立場に立って批評したい。
というのも、差異に対する認識の変化ということに対してぼくはちょっと物申したいからだ。なんとなれば、昨今のウェブ上をにぎわす言説からすると、酷く楽観的な気がしてならないからである。例えば国籍や性別、人種その他もろもろをひっくるめて、差異の部分に対する意識というものは途轍もなく低いものだと言わざるを得ない。実際、新大久保だの鶴橋だので排外運動をやらかすような連中が大手を振っている(そして、それを世間は受容してしまっていると言わざるを得ない風潮がある)ことを見るにつけ、どうしても本作の展開に対して「おとぎ話的」な感覚を抱いてしまうのだ。
むろん、この物語の根幹の部分についてはぼく自身は同意だ。だが、こんなに「おとぎ話的」な感覚に対して(悪い意味での)イノセントさを感じてしまう。実際、これだけ差異に対して排外的なヤツがある出来事で簡単に改心なんかしねぇだろ、とか思ってしまうわけだ。
また、本作には実の所非常に些細なダブル・スタンダードがある。ブレーメンに対する差異を受け入れた主人公は、実の所もう一つの差異――リトル・グレイに対する差異を決して受け入れているわけではない、ということである。無論、これは一種のギャグ描写であるのは間違いないのだが、実の所反差別というところにおいてもこのようなダブル・スタンダードが横行していることを考えると、色々と思う所がある。
物語としては大変に面白い作品だ。そういう面では全力でオススメできる一冊である。だが、それと同時に「差異」というものに対する楽観とダブル・スタンダードの問題についても是非とも考えてほしい。そういう作品だと思う。

ベトナム戦記(開高健/朝日文庫)


サントリーというと言わずと知れた洋酒メーカーだが、その一方で優秀な文人を輩出していたりする。「江分利満氏の優雅な生活」で一躍有名になった山口瞳やマカの宣伝やエッセイで名をはせた斎藤由香などである。その文人としての先駆者であるのが著者の開高健である。「裸の王様」で芥川賞を受賞したのち、様々なルポルタージュで文壇を賑わした人物だ。本書は同氏による百日にも及ぶベトナム滞在時のルポルタージュを纏めた一冊だ。
日本人にとってベトナム戦争というのは、いささか遠い出来事である。少なくとも公式には戦地で戦ったわけでもなく、せいぜい市民団体がベトナム反戦運動をやっていたくらいで、むしろ同時代の出来事としてはこれにまつわる学生運動の方がトピックスとしては挙がるくらいだ。逆にミリタリクラスタからすればベトナム戦争というのはある種「ジャンル」として消費されており、その実態だとかそういった部分について深く考察する向きは案外少数だ。
本書はそんな遠いベトナムという地を色鮮やかに活写している。戦地のルポルタージュというと、今では宮嶋茂樹さんが日本の第一人者になっている。実際にイラク戦争のルポルタージュでは、爆弾が大量に落ちてくるわ戦車の砲弾が近くの外国人プレスの部屋に落ちてきて死にそうになるなど、物凄いエピソードが書かれている。時代も違う、著者のベトナム戦争についてのルポルタージュなんて今更読む必要があるのか疑問に思う読者もいるかもしれない。
だが、違う。ここに描かれているベトナム戦争での「戦争」の姿というのは、今起きている戦争に共通する姿を持っている。それは、戦地と後方の温度差というものだ。ベトナムという戦地では毎日のように死者が出てそれが統計の数字としてしか消費されないくらいに「日常」となってしまっている。一方の後方であるアメリカでは、そもそもベトナム戦争について知らない市民が多数派だ。これを嘆くアメリカ兵の姿がとてつもなく印象的だ。
イラクやアフガンでの戦争は、アメリカという後方からはまったく切り離されたものとなり、戦地に行った将兵――そしてその家族だけが戦地という現実を受け取らざるを得ない状態となっている。この温度差というものを今読むことで肌で理解することができると思う。
以前「シビリアンの戦争」でも取り上げたけども、戦地から切り離された後方において戦争というものについてとかく無責任な態度でイケイケドンドンな態度を取るひとたちが増えている。そのツケを払わされるのは軍人やその関係者、そしてその国のひとたちだ。そして最終的には後方にも「戦費」という形で返ってくる。だけども、それに気づくのはよほど後になってからだ。事実、アメリカにおいてもこういった問題が認識されたのはブッシュ政権の末期になってからだ。そしてその後のオバマ政権が「負の遺産」の処理に苦しむという頭の痛い構図が存在する。
ぼくらが戦争というものがどういったものか認識する一つの手助けとして、本書は非常に優れたものだと思う。戦地帰りの勢い任せで読みにくい部分は多少あるけども、腰を据えて読む価値がある一冊だと思う。

日ノ丸をいつもポケットに…
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あとがき
解説 限りなく“事実”を求めて(日野啓三