伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

イギリス帝国の歴史(秋田茂/中公新書)


ヴィクトリア朝ロンドンと言えばイギリスの「黄金時代」である。この呼び方は知らなくてもシャーロック・ホームズの活躍した時代と言えばピンと来るかもしれない。TRPG好きでいえば、クトゥルフ神話TRPGでもこの時代をテーマにした「クトゥルフ・バイ・ガスライト」というサプリメントがあって、多少なりともこの時代の「空気」というものを体験することが出来る。他にも色々とあるが、キリが無いのでこの辺にしておこう。
これらの時代はイギリスという国家が世界的に覇権を握った頃と一致する。まあ、当たり前の話だがいつの時代も繁栄というものはカネか権力(もしくは両方)を握った者が手にする「配当」だ。そんなイギリスという国家の繁栄はいったいどういったものから得られたのだろうか?
教科書的な解答としては、植民地を背景にしつつ産業革命によって「世界の工場」となり世界帝国として覇権を握ることとなった、というものだが、それだけではちょっとつまらない。つまらないという表現はあまり適切ではないかもしれないが、それだけで奥深い「覇権」の世界を知った気になったのではちょっと勿体ないと思う。本書はそんな基礎知識をさらに補強してくれる一冊だ。
イギリス帝国が覇権を握るまで、そしてその覇権のもと繁栄をし、第二次世界大戦後のスエズ動乱を経て覇権を失うまでを、ある程度の基礎知識を持っていれば大変に読みやすくまとめた良書だ。高校生あたりで歴史と言うものに興味を持ったのであれば、受験勉強の合間に読んでみてもいいだろう。

世紀の空売り(マイケル・ルイス、東江一紀 訳/文春文庫)


リーマンショックというと、ぼくにとってはなにげに感慨深いものがある。いってみれば、ぼくが諸事情により傘貼り浪人のようなマネをしているとき、ちょうどリアルタイムで起きている現象を見ていたのだ。正直、やることもなく不遇をかこっていたが故に朝から晩までCNBCを見ているという今となってはなんとなく羨ましい生活だった。株式は大暴落し為替は荒れ狂い、カタストロフという印象を受けていた。
だが、そんな狂乱の原因がなんだったのか? というのはあまり真面目に検証されていない。「強欲資本主義」とカリカチュアライズされた言葉だけが飛び交っていて、そこで扱われていた怪しげなシロモノ――サブプライムローンとCDOは言葉だけ消費されて実際どのようにロクデモナイしろものだったのか検証されてない気がする。
本書はそんなサブプライムローンに対し真っ向からショート(空売り)した3組のヘッジファンドについて述べたノンフィクションだ。著者自身もかつて投資銀行のソロモンブラザーズに勤務していた経験もあり、このロクデモナイ世界の語り手としてはうってつけと言えよう。
このサブプライムローン証券化商品はどんなに取り繕っても上品な説明ができないシロモノだ。ありていに直截的に語ってしまうならば、クソを溶いたものをミソと混ぜて売るようなものだ。そしてそのクソには時限式の毒薬が仕込んである――信じられないかもしれないが、これが真実なのである。そのからくりに気づいた3組のヘッジファンドの戦いについては本書を読んでもらうとして、実際その狂乱の中で踊っていたアメリカという国は、結局この後始末に物凄い労力を払い続けている。
本書に描かれているウォール街の関係者はそろいもそろってまともなヤツが一人たりとて居ない。正直、かつて金融業界を志した人間としてはとてつもなくげんなりするし、テレビ東京の大江アナウンサーが無事にやっていけるのか(NY支局に栄転なさってしまったのだ……)正直心配な気分になるのだが、まあ、著者に言わせれば昔からそうだったらしい。実際先述したような「強欲資本主義」という言葉もあながち間違ってはいないのかもしれない。それではこの仕組みに真っ向から立ち向かった3組のヘッジファンドの関係者がまともかというと、それもさにあらず。正直に言って、こちらも大概なお人だったりするあたり頭が痛くなる。アメリカの金融業界、こんなのばっかかよ!
実際、読んでいて吐き気を催す邪悪に気力を奪われること間違いない一冊である。だが、それがアメリカの――そして世界の金融業界の現実である以上それを直視しなきゃいけない。その上で、歪んだプロフェッショナルどもの首根っこを押さえるために、われわれがどうしていかなきゃいけないか考える――そのきっかけとなる最良の一冊であると思う。

序章  カジノを倒産させる
第一章 そもそもの始まり
第二章 隻眼の相場師
第三章 トリプルBをトリプルA
第四章 格つけ機関は張り子の虎である
第五章 ブラック=ショールズ方程式の盲点
第六章 遭遇のラスヴェガス
第七章 偉大なる宝探し
第八章 長い静寂
第九章 沈没する投資銀行
第十章 ノアの方舟から洪水を観る
終章  すべては相関する
謝辞
訳者あとがき 『ライアーズ・ポーカー』からの道程

学問と「世間」(阿部謹也/岩波新書)


「学問」が不当に扱われる世の中である。いきなり何を言うのかと思うかもしれないが、実際問題として大学で学問を修めるにあたり実質的には3年余りしか時間が与えられない(いわゆる「シューカツ」というやつのせいだ)状況は「学問」をなおざりにしていると言っても過言ではない。個人名は挙げないが「大学での「学問」は社会に出てからは関係ない」式のことを言い漏らす経営者がいるような時点で、色々お察しというようなものである。
でも、実際「学問」ってそんなに不必要なものなんだろうか? それでは大学というものが何故存在するのだろうか? それこそ、かつての毛沢東やポル=ポトのように、インテリゲンチャをみんな下放して原始共産制のようにしてしまった方がいいのではなかろうか? この疑問に対しまともに答えを持つものは、多分居ないが居るだろう。この矛盾した答えの謎は極めて単純なものである。本音の部分としては「学問」なぞ余裕のある話だ、そんなことをする前に働けというものだ。そして建前としては、西欧にならって国家制度を成り立たせてきた日本という国において「学問」をおろそかにすることはできない。この本音と建前の矛盾こそが、このように「学問」が不当に扱われるようになった遠因ではないだろうか。余談だが、そういった意味では先述の財界人の発言は二重の意味で失言と云える。一つはもちろん学問というものを軽んじた、あまりに迂闊で知性の無い発言であること、そしてもう一つは、経営者というある種建前の世界に生きる人が公の場で本音を漏らしたということである。むろん、この経営者が表だって咎める者は居ないだろうが、知性の欠如した人物であることは否定できないだろう。
さて、本書はこの本音と建前を形成する「世間」と学問について、欧州の〈生活世界〉と学問との関係性と比較しながら論じた一冊だ。本論としてはそこから「生涯学習」についても述べられているが、そこにあまり価値は無い。むしろ「世間」というものと欧州の〈生活世界〉との比較――そしてそれらとの学問の関係性が中心に述べられており、そこに著者の専門である欧州中世の社会史のパースペクティブが効いている。
本書は新書で、比較的平易かつ手軽な本であるがそこで述べられている内容は決して「新書的」なものではない。どちらかといえば、もっと本質的な――いわば学問的な内容である。万人が読んで何か良いものを手に入れられるかと言われれば、それはNoだ。おそらく世の中の大部分の人が本書を読んでも小難しいことを書いているだけと思うだろう。
ただ、ここで述べられている世間というものと学問の関係性は決して古びるものではないし、教養として持っていることはとても大事なことだと思う。特に、日本人が「学問」として認識しているものが〈生活世界〉に対して本来は延長線上にあるということ、そして知ったかぶっていることを真に考えるということの重要性は、こと今日ウェブという空間で飛び交う空虚な言葉を切り払うためにも重要だ。
個人的には同志社大の三輪教授のエピソードが、明星大の関教授の調査手法と重なり非常に印象的であった。このエピソードを読んだだけでも本書を読んだ価値はあったと思っているし(若干口はばったいけども)世の中に紹介するに値する一冊だと確信している。

まえがき

第一章 日本と西欧における人文科学の形成――世間と個人――
 第一節 日本の人文社会科学者たちはどのようにして養成されてきたか
 第二節 西欧における個人の起源と人文諸科学の展開

第二章 日本の学問の現在
 第一節 日本の学問の形と教養概念
 第二節 人文諸科学は他の学問とどのような関係をもっているか
 第三節 大学や大学院でもは何が行われているか
 第四節 研究と教育はどのようにして支えられているか

第三章 フッサールの学問論と日本の「世間」――〈生活世界〉の発見――
 第一節 フッサール現象学における〈生活世界〉とは何か
 第二節 〈生活世界〉の刑法学
 第三節 〈生活世界〉としての「世間」

第四章 日本の学問の課題――〈生活世界〉の探求――
 第一節 家政学の現在
 第二節 〈生活世界〉の中の教養
 第三節 合理的な近代化のシステムと歴史的・伝統的システム(「世間」)の狭間で
 第四節 学問の再編成に向けて――大学の役割

あとがき
参考文献

ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界(阿部謹也/ちくま文庫)


阿部謹也さんというと、ぼくからするととても微妙な思いを抱えた先生だ。正直なところを言えば早くて中学生、ふつう高校生、遅くても大学生までには「読んでいるべき」であって、三十路を手前にして今更読み始めるということの恥ずかしさというのがどうしてもある。その一方で、ぼくの知っている若い世代に一刻も早く紹介したいし、その知のエッセンスというもの、そしてその面白さや楽しさというものを教えてあげたいという思いも同時にある。さらに言えば、ぼく自身歴史というものがとても好きだしその中で阿部さんの築き上げてきたものは自分の中に得たいものだ、という知的好奇心もある。
そういった複雑な心境の中で読んだ感想というのを前提にぼくの書評を読んでほしい。
多くの「おとぎ話」(敢えて本書の表現から外れたこの書き方をする)には下敷きになる(事実というには曖昧模糊とした)出来事が存在する。また、同時に当時の時代を反映した背景もまた存在する。
ハーメルンの笛吹き男」。読者諸賢も小さいときに「おとぎ話」として見聞きしていることだろう。実際、ぼくも幼稚園のときに学芸会でやらされたもんだ(そこでとちって、会場大爆笑というすべったんだかすべってないんだかわからない経験をしたのだが、それはさておく)。だが、この話はただの「おとぎ話」ではないと著者は言う。本書でも記述されている通り、1284年6月26日に当時のハーメルン市の規模から言えば相当規模の失踪者が出たという史実が存在する。そしてかつて様々なひとたち(そこにはライプニッツというビッグネームも存在する)によって興味深いミステリーとして、研究の対象になった。本書はこの「ハーメルンの笛吹き男」というミステリーに対してかなり明確かつ明瞭な解答編となるものである。
敢えてここではその解答編の内容については言及しない。ミステリーのネタバレというのは避けるというのが著者への礼儀というものだろう。だが、先に述べた「おとぎ話」の下敷きとなる出来事、そして時代背景というものが次第に明確になっていくのは、まさに名探偵が謎を解き明かす瞬間のような快感を与えてくれると思う。
そして、本書を読み進めるにあたって歴史というものが無味乾燥な単純暗記ではなくて、豊饒な乳と蜜の流れる地そのものということを悟るに違いない。若い世代が「勉強」させられている「歴史」はあくまでも通史という「幹」の部分であり、そこからきわめて豊かな枝葉、そして花や果実が実っているのである。だからこそ「幹」をしっかりとさせるという意味で「歴史」の「勉強」は大事なのだ。とはいえ、そればかりではつまらないというのも事実。そういう意味では本書のような豊饒な果実をたまには齧ってみるというのも必要かもしれない。
そういった意味では是非とも若い世代、それも大学に入る前の少年少女たちに読んでほしい本だ。確かに簡単に読み進められるような本ではない。内容としては大学生や大学院生に向けて書かれた、かなりレベルの高い本であることは間違いない。ただ、これを一冊通読した上で再び「歴史」の「勉強」に向かったとき、日ごろ学んでいるものの重要性や面白さが理解できるようになるだろう。

〇第一部 笛吹き男伝説の成立
 はじめに
 第一章 笛吹き男伝説の原型
  グリムのドイツ伝説集/鼠捕り男のモチーフの出現/最古の史料を求めて/失踪した日付、人数、場所
 第二章 一二八四年六月二六日の出来事
  さまざまな解釈をこえて/リューネブルク手書本の信憑性/ハーメルン市の成立事情/ハーメルン市内の散策/ゼデミューンデの戦とある伝説解釈/「都市の空気は自由にする」か/ハーメルンの住民たち/解放と自治の実情
 第三章 植民者の希望と現実
  東ドイツ植民者の心情/失踪を目撃したリューデ氏の母/植民請負人と集団結婚の背景/子供たちは何処へ行ったのか?/ヴァン理論の欠陥と魅力/ドバーティンの植民遭難説
 第四章 経済繁栄の蔭で
  中世都市の下層民/賤民=名誉をもたない者たち/寡婦と子供たちの受難/子供の十字軍・舞踏行進・練り歩き(プロセッション)/四旬節とヨハネ祭/ヴォエラー説にみる〈笛吹き男〉
 第五章 遍歴芸人たちの社会的地位
  放浪者の中の遍歴楽師/差別する側の怯え/「名誉を回復した」楽師たち/漂泊の楽師たち

〇第二部 笛吹き男伝説の変貌
 第一章 笛吹き男伝説から鼠捕り男伝説へ
  飢饉と疫病=不幸な記憶/『ツァイトロースの日記』/権威づけられる伝説/〈笛吹き男〉から〈鼠捕り男〉へ/類似した鼠捕り男の伝説/鼠虫害駆除対策/両伝説結合の条件と拝啓/伝説に振廻されたハーメルン
 第二章 近代的伝説研究の除雪
  伝説の普及と「研究」/ライプニッツ啓蒙思想/ローマン主義の解釈とその功罪
 第三章 現代に生きる伝説の貌
  シンボルとしての〈笛吹き男〉/伝説の中を生きる老学者/シュパヌートとヴァンの出会い
 あとがき
 解説 泉のような明晰(石牟礼道子
 参考文献

決戦下のユートピア(荒俣宏/文春文庫)


博学で知られる著者による第二次大戦下の日本におけるひとびとの暮らしを面白おかしく綴った一冊。
ぼく自身ミリヲタとして非常にアウトサイダーなヤツでありまして、兵器の話だとか戦術の話よりも、末端の飯炊き兵のはなしだとか輜重輸卒のはなしが大好きなわけであります。自然、たいがいのミリヲタとの交わりは疎遠になって、流通関係(輜重輸卒のはなしから、小行李・大行李、そして兵站、ロジスティクスへと発展していく)だとか著しきは米軍のマニュアル(これは神保町に専門の古本屋がある)なんぞを好んで買っては読みふけるという、何ともおぞましいドロップアウトミリヲタが誕生したわけである次第。
こんなぼく自身のヨタ話はどうでもいいのだが、この本もそんなアウトサイダーでドロップアウトしたミリヲタのぼくにとってはとっても楽しい本だ。何しろ「ユートピア」である。そもそも「ユートピア」という言葉がもとの本からして反語的意味を持つからして、どれほどのエピソードを読ませてくれるのかとワクワクしてしまう。そして、実際内容はびっくりするほど「ユートピア」であった。何しろ、のっけからロクデモナイ母親の話から始まるのである。どれほどロクデモナイ母親だったかは、是非手に取って確かめてみて欲しいが、読めば読むほど「こ れ は ひ ど い」と思わせる話で満載だ。
とはいえ、面白おかしいだけの本ではない。冒頭の一節は昨今の生真面目なのかバカ正直なのかよくわからない、青年連(もっとも本当に青年と云える年なのかは知らんが)にも是非読ませてあげたいことを綴っている。最後にこれを引用して結論に代えさせてもらおう。
「まあ、相撲でいうなら、腰を引いて左半身、といったところだろうか。ものごとはすべからく、半身がよい。ゆめゆめ、がっぷり四つ、になど組んではならない――、というのが、歴史を相手にするときの、自分流の心構えである」