伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

現代アフリカの紛争と国家(武内進一/明石書店)


アフリカの紛争というとどういったものを想像するだろうか? たとえばルワンダのジェノサイドもその一つだし、最近起きた(起きている)イスラム過激派のテロリズムもその一つと言える。もっと細かいものを取り上げるとキリが無いほどだ。
ぼくの持つイメージというのは資源の権益(石油だとかダイヤモンドだとかだ)を巡って主流派と反主流派がドンパチやっている内戦のイメージが非常に強い。これは松本仁一カラシニコフで読んだ「失敗国家」の記述が非常に強烈で今でもその印象に囚われているからだと自己分析している。実際、アフリカの権力闘争のイメージというのは、角福戦争を武器を使ってやっているような、そんなプリミティブなものと思っている向きも多いかと思う。
だが、本書はそのイメージは時代遅れな考えだと一刀両断している。実の所そういった紛争はむしろ1960年代から1980年代には主流だったが、それ以降、とりわけ1990年に入ってからの紛争は少し違ったものなのではないか? という指摘をしている。本書ではそれをポストコロニアル家産制国家とそれの解体による紛争という言葉を使って説明している。これを簡単に言ってしまえば、権力者とその取り巻きが一切合財を握っている体制のことで、植民地後だから「ポストコロニアル」というくらいの意味である。この体制が1960年代から1980年代に続き、それが1990年代に入って解体され始めたことで今のアフリカにおける紛争激化が起きたのだと筆者は指摘する。
アフリカという国はこの書評でも関連する書籍の書評で何度も指摘しているが、日本とはあまりに縁遠いこともあって、とかく一面的な見方をしてしまう傾向がある。かくいうぼくも、ポストコロニアル家産制国家的な見方を未だにしてしまっていたことからもよくわかると思う。だからこそ丹念な統計的分析とヒアリング資料の分析を用いることで、その迷妄を分析してくれた本書は、極めて啓蒙的で優れた分析だとぼくは思う。
ケチをつけることは幾らでもできると思う。特にイスラム原理主義との関連(特に北アフリカ諸国における)についての言及があまり無い点も不満だし、実際に従来的な紛争とは一線を画したものなのか? という点についても若干食い足りないところがある。ルワンダのケース分析が中心になっているので、このケースだけでアフリカ全土の紛争を説明しようというのは若干無理があるようにも思う。だが、アフリカという物凄く大雑把な括りの中の一つの見方として本書の指摘は極めて有意義だ。
一般向けの読み易い本ではなくガチガチの専門書だし、広くオススメするにはちょっと厳しい本であることは間違いない。だが、それでも見聞を広めたい若いひとたちには是非ともトライして欲しい一冊であることには間違いない。読了することで、アフリカについて新たなパースペクティブを得られること間違いなしだ。

図表リスト
凡例
地図〈アフリカの国家〉

序 問題の所在と方法

第Ⅰ部 1990年代アフリカの紛争をどう捉えるか
第一章 1990年代アフリカの紛争
 はじめに
 第1節 発生頻度と類型化
 第2節 紛争の新たな特徴
 第3節 先行研究の視角
 まとめ

第2章 ポストコロニアル家産制国家(PCPS)の解体としての紛争
 はじめに
 第1節 独立後のアフリカにおける国家の特質
 第2節 ポストコロニアル家産制国家(PCPS)
 第3節 特質の由来
 第4節 PCPS解体の契機
 第5節 PCPSの解体と新たな紛争の特質
 第6節 植民地秩序とポストコロニアル秩序
 第7節 ルワンダという事例
 第8節 議論の進め方
 まとめ

第Ⅱ部 植民地統治の衝撃
第3章 植民地化以前のエスニシティと統治
 はじめに
 第1節 エスニシティの起源
 第2節 統治体制とエスニシティ
 まとめ

第4章 植民地化とルワンダ国家
 はじめに
 第1節 植民地ルワンダの領域的形成
 第2節 植民地経営の改革
 第3節 植民地経営の理念と現実

第5章 植民地期の社会変容
 はじめに
 第1節 社会的不平等と社会秩序
 第2節 土地制度の変容
 まとめ〈第4章・第5章〉

第6章 「社会革命」
 はじめに
 第1節 信託統治地域の政治制度改革(1956年まで)
 第2節 万聖節の騒乱
 第3節 国際社会の介入
 第4節 農村社会にとっての「社会革命」
 まとめ

第Ⅲ部 ポストコロニアル家産制国家(PCPS)の成立と解体
第7章 カイバンダ政権期の国家と社会
 はじめに
 第1節 政治体制の制度的性格
 第2節 政治制度の実態
 第3節 ローカルな権力と農村社会
 第4節 「イニェンジ」侵攻とその影響
 第5節 対外関係
 まとめ

第8章 ハビャリマナ政権の成立と統治構造
 はじめに
 第1節 クーデター
 第2節 ハビャリマナ体制の骨格
 第3節 インフォーマルな権力中枢
 まとめ

第9章 混乱の時代
 はじめに
 第1節 経済危機
 第2節 内戦勃発
 第3節 政治的自由化と急進勢力の膨張
 まとめ

第10章 ルワンダ・ジェノサイドに関する先行研究
 はじめに
 第1節 積年の「部族対立」
 第2節 経済的要因、農村社会経済構造
 第3節 人種主義と利得
 第4節 全体主義的動員
 第5節 フトゥ集団内の圧力

第11章 ジェノサイドの展開
 第1節 ハビャリマナ大統領搭乗機撃墜事件
 第2節 新政権の発足
 第3節 ジェノサイドの主体
 第4節 地方におけるジェノサイドの展開過程
 まとめ

結論 アフリカの紛争と国家
 第1節 〈第Ⅱ部〉〈第Ⅲ部〉の要点と主張
 第2節 含意
 第3節 PCPSの移行

写真構成:ルワンダの人びとと風景

補論1 聞き取り調査について
補論2 ジェノサイドに関する主要人名録

あとがきと謝辞
引用文献
索引

昭和金融恐慌史(高橋亀吉・森垣淑/講談社学術文庫)

歴史というものを学ぶ意味は如何なるところにあるのだろうか? それは過去に起きた事象から得た教訓を現在に活かすということが大きい。なんとなれば、これこそが人間を人間たらしめる叡智と言ってもよいだろう。なにやら近年の不勉強な輩は「今だけ見ていればいい」式のことを曰っているのを目にするが、甚だ不見識と云っていいだろう。このような輩にインテリゲンチャを名乗る資格はない。
さて、本書は昭和初期に発生した「金融恐慌」を題材にした専門的歴史書である。遠因である第一次世界大戦の反動不況や銀行制度の前近代性から論じ、直接の引き金となった片岡蔵相の失言、そしてモラトリアムによる恐慌の鎮圧まで極めて詳細に書かれている。純粋にこの時代にあった出来事の一つとして知りたいのであるならば、正直過分なほどだ。だが、歴史から教訓を学ぶというのであれば話は別だ。
本書から学び取れる教訓のうち最大のものは解説で鈴木正俊氏がキンドルバーガーを引いて述べている次のようなことだ。「恐慌は最後の貸し手が不在の時に起る」。本書の中で詳述されているので詳しくは立ち入らないが、この時代の日銀は中央銀行の機能の一つ、「最後の貸し手(lender of last resort)」としての役目を十分に果たしているとは言えなかったのである。そしてその結果として金融恐慌という最悪の事態を迎えた。そしてモラトリアムの後、金融恐慌は収拾された。これは結局として政府・日銀が「最後の貸し手」として金融システムの維持を担保したことによるものである。
本書を読むことで得られる教訓はこれだけではない。この金融恐慌の遠因として、極めて投機的な商取引が存在している。どうやら、近々本書の教訓が役立ちそうなときが来そうではないだろうか。なにやら、兜町方面は時ならぬ株式相場の盛り上がりで随分と怪気炎を上げている向きがあるそうだ。少なくともぼくたちは本書のような「歴史」を学ぶことで、恐慌という最悪の事態を迎えないように備えねばなるまい。
はしがき
 
第一部 昭和二年金融恐慌の基因
第一章 金融恐慌の基因としての銀行制度の前近代性
 第一節 銀行制度の欠陥--前近代性
 第二節 銀行制度の前近代的特質形成の経緯
 第三節 機関銀行の発生・拡大
 第四節 その他の前近代的特異体質
 第五節 政府の銀行改善施策
 
第二章 昭和二年金融恐慌の基因の累積
 第一節 大戦中のわが国経済規模の飛躍的拡大
  (一) 大戦によるわが国経済の異常発達
  (二) 経済規模の急膨張と銀行の態度にみられる問題点
 第二節 大正九年の財界大反動
  (一) 大正八~九年の思惑投機
  (二) 大正八~九年の熱狂的投機と銀行の加担
  (三) 大正九年反動の来襲
 第三節 大正九年反動の善後措置
  (一) 反動の性格の誤認
  (二) 善後措置の実情と性格
  (三) 安易な救済措置のもたらした弊害
 
第三章 関東大震災以降の財界の打撃の累積
 第一節 関東大震災の打撃とその善後措置
  (一) 大震災による打撃とその救済措置
  (二) 震災善後措置の実情
 第二節 円為替の暴落、暴騰による新打撃
  (一) 震災後の円為替の暴落
  (二) 十四~十五年の円為替投機化と急騰
  (三) 円為替の急騰と財界の再悪化
 
第四章 休戦九年反動以降の企業、銀行の打撃の累加
 第一節 休戦以降の財界打撃の累加
 第二節 企業欠損の累増と銀行の不良貸出の累積
 第三節 破綻銀行に露呈された企業-銀行の高度な癒着関係
  (一) 台湾銀行鈴木商店との癒着関係
  (二) 十五銀行と松方系会社との癒着関係
  (三) その他の若干の事例
 
第二部 昭和二年金融恐慌の誘因と推移
第一章 昭和金融恐慌の誘発
 第一節 昭和金融直前の情勢
  (一) 金融恐慌直前の経済的行詰り
  (二) 円為替相場の激動と財界疲弊の激化
 第二節 金解禁断行決意の準備工作とその影響
  (一) 片岡蔵相の金解禁準備工作
  (二) 金解禁論の問題点
 第三節 震災手形処理問題
  (一) 震災手形処理状況
  (二) 震災手形処理法の概要
  (三) 震災手形処理法案の審議過程における実情の暴露
 
第二章 昭和金融恐慌の勃発と経過
 第一節 金融恐慌勃発とその通観
 第二節 金融恐慌の第一波
 第三節 金融恐慌の第二波
  (一) 台湾銀行の鈴木絶縁
  (二) 枢密院の緊急勅令否決
 第四節 金融恐慌の第三波
  (一) 台銀、近江、十五銀行の休業
  (二) 全国的な銀行取付の発生
 
第三章 昭和金融恐慌の善後処置
 第一節 政府の救済措置
  (一) 事前の予防措置と第一次の緊急措置
  (二) 本格的恐慌収拾対策の発動
  (三) 日銀特融および損失補償法
  (四) 両特融救済法の実施とその結果
  (五) 政府措置に対応する日銀・市中銀行の対策
 第二節 休業銀行の整理
  (一) 休業銀行に対する措置
  (二) 整理上の問題点
  (三) 昭和銀行の設立による吸収整理
  (四) 台湾銀行の整理
  (五) 十五銀行の整理
 
第三部 昭和金融恐慌のわが国経済に及ぼした影響とその歴史的意義
第一章 金融構造および金融市場に及ぼした影響
 第一節 金融の変態的一大緩慢化
  (一) 恐慌鎮静後の金融の推移
  (二) 異常の低金利時代の出現とその理由
 第二節 預金の流れの変化と大銀行集中の急進展
  (一) 預金の普銀から郵便貯金金銭信託への流出
  (二) 大銀行の地位の飛躍的向上
  (三) 資金の大都市集中
 第三節 恐慌後の金融変容のもたらした問題点
  (一) 日銀の金融統制力の減退
  (二) 金融緩慢化の中小企業の金融難
  (三) 金融界からの金解禁即時断行論の擡頭
 第四節 昭和金融恐慌の経済界に与えた打撃とその特質
  (一) 産業界に与えた打撃
  (二) 証券、商品両市場に与えた打撃
  (三) 昭和金融恐慌の特質
 
第二章 昭和金融恐慌の真因とその歴史的意義
 第一節 金融恐慌は不可避であったか
  (一) 直接因とその対策批判
  (二) 金融恐慌の真因とその不可避性
 第二節 昭和二年金融恐慌の歴史的意義
  (一) 銀行制度改善の促進
  (二) 大財閥支配体制の確立
 
付属資料
  (1) 昭和金融恐慌関係主要日誌
  (2) 昭和金融恐慌関係重要法令
解説 昭和金融恐慌と平成不況の類似点 鈴木正俊

工学の歴史 機械工学を中心に(三輪修三/ちくま学芸文庫)


ぼくらの身近のものは当たり前の話だけど一定の法則があって成り立っている。小は機械式の時計だったり大きなもので言えば電気を生み出す発電所だったりする。さらに言えばそれらを生み出す加工用の機械だってそうだ。これらは「工学」という学問分野によって研究されていたり開発されていたり、そして新たな製品が生み出されている。
本書はそんな工学の歴史について通史として述べた一冊だ。古くは四大文明の時代から、もちろん原始的なものだけどこういった工学的なものがあってその歴史の中に今の製品や技術があるというパースペクティブは、大きな歴史の中に自らを置くことができるものだ。
こういった技術そのものから若干外れた研究というのは、とかく斯界の中では一段低く見られる傾向がある。なんとなれば、研究の世界で業績を出せない連中が喰う為にやるという見方をされてしまいがちだ。だけども、こういった大きな流れが前提として今があるということは技術者のみならず一般のひとたちも身に着けるべきだと思う。言い換えれば教養の一つというべきだろうか。
若干愚痴交じりの物言いになるけども、技術者のひとたちはこの手の教養に対する意識が低すぎるとぼくは思っている。それは先述したように技術そのものから若干外れた世界に対して本筋ではないという考え方もそうだし、モノを実際に作る中でもこういった教養が無いが故に、意味不明な失敗作が多数生み出されていることを見ても言えると思う。
一方で一般のひとたちも同様だ。身の回りにある製品や技術に対してどれほど興味を持って生活しているだろうか? 技術というものが半ば所与のものとしてその恩恵を享受しているけども、その仕組みや働きを全く理解せずに使っているということにどこかしら気持ち悪さを持たないんだろうか? ぼくはそういった態度に対して、不見識だと思うしある種無責任でもあるように思う。
本書はあくまでも入門書であり、大学の教養部(今はこんな言い方をしないけど)で扱われているような内容だ。必ずしも読み易いと言えるものでもないし、解説無しで読むには少し辛い内容であることは否定しない。ただ、本書で述べられているような大きな流れの中に今のぼくたちの生活があるということを感じるだけでも本書を読む価値はあると思う。
と、まあお堅い話はこのくらいにして。ぼく自身若干アウトサイダーなミリヲタとして、一時期造兵史に凝った時期があった。造兵史というのは銃や火器、火砲、車両についてどのような系譜――いわば兵器を開発する大きな歴史の流れについての学問だ。日本では個々の兵器について語る人は多いけども、造兵史という大きな流れについて触れた人はあまりに少なく、国会図書館に通い詰めていろんな資料を読んだ時期があった(我ながら暇人だと思うが、趣味なのだからしょうがない)。
こういったものを読んでいて一つぼくの中で確信を持って言えることがある。それは「兵器とは技術と必要の掛け算」であるということだ。つまり、兵器そのもののスペック(ある種「必要」の部分)だけ追っかけていてはその兵器の本質に迫ることができないということだ。技術という必然性であり制約があり、その中で必要に迫るというのが兵器開発の一つの本質だとぼくは今でも思っている。例えば、冶金技術の遅れが日本の兵器の一つの制約になっていたということを知らなければ、非常に一面的で偏った見方を日本軍の兵器に対してしまうことになる。
本書はそんな兵器の世界の技術についても触れられていてなかなか興味深かった。米軍のリバティ船の脆性破壊の話は事項としては知っていたけども、工学の分野でも一つの課題となっていて、それが30年も前の研究がブレイクスルーとなったなんてとっても面白い話じゃないか。また、零戦のフラッタ―対策が新幹線の台車――つまり高速鉄道の台車の技術につながっているという話も大変面白いものだ。ミリヲタの知識増強という意味でも本書はオススメできると思う。
繰り返しになるが決してお手軽な本ではない。ただ、本書を眺めて内容を追うことで少しでもこういった教養を身に着けることができるはずだ。確信をもってオススメしたい。

まえがき

1 古代の機械技術と技術学――紀元前5世紀から後9世紀ごろまで
 1.1 古代社会と技術文化の概要
 1.2 古代中国の機械技術と技術思想
 1.3 古代ギリシャ・ローマの機械技術と技術学
 1.4 イスラム世界の機械技術書

2 中世の機械技術と技術学(10-14世紀)
 2.1 中世社会と学術・技術文化の概要
 2.2 文化の華開く中国――宋代の技術と技術学(10-13世紀)
 2.3 中世ヨーロッパ――学術と技術の発展(12-14世紀)
 2.4 社会不安と軍事技術の発達(14,15世紀)――中世からルネサンス

3 ルネサンス期の機械技術と技術学(15,16世紀)――技術と科学の結合
 3.1 ルネサンス期の社会と学術・技術文化の概要
 3.2 軍事技術の隆盛――戦争に明け暮れるルネサンス
 3.3 ルネサンス期の技術学
 3.4 ルネサンス期の主な技術書

4 動力学の誕生と発展(17世紀)――ガリレオからニュートンまで
 4.1 17世紀のヨーロッパ社会
 4.2 技術の発展と近代科学の誕生
 4.3 動力学の誕生と発展

5 動力学の展開(18世紀)――解析力学の完成
 5.1 18世紀のヨーロッパ社会と学術文化の概要
 5.2 科学の研究機関――科学アカデミーの成立
 5.3 動力学の展開――「ニュートンの力学」から「ニュートン力学」へ

6 産業革命と近代エンジニア(18,19世紀)
 6.1 産業革命を引き起こしたもの
 6.2 動力革命、蒸気機関と動力水車の発展
 6.3 工作革命、精密工作を可能とした技術
 6.4 近代エンジニアと技術者団体の成立
 6.5 王政フランスの土木技術と技術学
 6.6 王政フランスの技術学校と技術エリート

7 ニコル・ポリテクニク――工学と工学教育の誕生
 7.1 フランス大革命とニコル・ポリテクニクの創立
 7.2 エコル・ポリテクニクの群像――工学の誕生
 7.3 エコル・ポリテクニクが残したもの

8 近代機械工学の夜明け
 8.1 鉄道と近代造船のインパクト――機械技術のテイクオフ
 8.2 黎明期の機械工学者たち

9 産業技術の発展と機械工学
 9.1 産業社会の出現
 9.2 機械文明の開花――アメリカ
 9.3 機械製図法と工業規格
 9.4 機械工学の教育と研究の進展

10 機械工学の専門分化と発展I――材料力学、機械力学
 10.1 材料力学の発展
 10.2 機械力学の発展

11 機械工学の専門分化と発展II――流体工学、熱工学
 11.1 流体工学の発展
 11.2 熱工学の発展

12 近代日本――機械工学の導入と定着
 12.1 江戸という時代――文化の高まり
 12.2 江戸時代の機械技術と機械学
 12.3 幕末・維新期の主な機械工学書
 12.4 洋式工学教育の開始――ヘンリー・ダイアーと工部省工学寮
 12.5 日本の機械工学の離陸
 12.6 日本の機械技術・機械工学の発展――研究所ブームと重工業時代

13 機械工学の現在と未来
 13.1 第二次大戦後の技術革新
 13.2 機械の先端技術と機械工学の現在
 13.3 技術を取り巻く社会環境の変化
 13.4 新時代のキー・ワード――「人間」
 13.5 未来に向かって

14 終章――工学史への招待
 14.1 まとめ――歴史にみる機械と機械工学の変遷
 14.2 技術と科学と工学と
 14.3 工学史への招待

機械技術史・機械工学史年表
参考文献
あとがき
事項索引
人名索引

学問と「世間」(阿部謹也/岩波新書)


「学問」が不当に扱われる世の中である。いきなり何を言うのかと思うかもしれないが、実際問題として大学で学問を修めるにあたり実質的には3年余りしか時間が与えられない(いわゆる「シューカツ」というやつのせいだ)状況は「学問」をなおざりにしていると言っても過言ではない。個人名は挙げないが「大学での「学問」は社会に出てからは関係ない」式のことを言い漏らす経営者がいるような時点で、色々お察しというようなものである。
でも、実際「学問」ってそんなに不必要なものなんだろうか? それでは大学というものが何故存在するのだろうか? それこそ、かつての毛沢東やポル=ポトのように、インテリゲンチャをみんな下放して原始共産制のようにしてしまった方がいいのではなかろうか? この疑問に対しまともに答えを持つものは、多分居ないが居るだろう。この矛盾した答えの謎は極めて単純なものである。本音の部分としては「学問」なぞ余裕のある話だ、そんなことをする前に働けというものだ。そして建前としては、西欧にならって国家制度を成り立たせてきた日本という国において「学問」をおろそかにすることはできない。この本音と建前の矛盾こそが、このように「学問」が不当に扱われるようになった遠因ではないだろうか。余談だが、そういった意味では先述の財界人の発言は二重の意味で失言と云える。一つはもちろん学問というものを軽んじた、あまりに迂闊で知性の無い発言であること、そしてもう一つは、経営者というある種建前の世界に生きる人が公の場で本音を漏らしたということである。むろん、この経営者が表だって咎める者は居ないだろうが、知性の欠如した人物であることは否定できないだろう。
さて、本書はこの本音と建前を形成する「世間」と学問について、欧州の〈生活世界〉と学問との関係性と比較しながら論じた一冊だ。本論としてはそこから「生涯学習」についても述べられているが、そこにあまり価値は無い。むしろ「世間」というものと欧州の〈生活世界〉との比較――そしてそれらとの学問の関係性が中心に述べられており、そこに著者の専門である欧州中世の社会史のパースペクティブが効いている。
本書は新書で、比較的平易かつ手軽な本であるがそこで述べられている内容は決して「新書的」なものではない。どちらかといえば、もっと本質的な――いわば学問的な内容である。万人が読んで何か良いものを手に入れられるかと言われれば、それはNoだ。おそらく世の中の大部分の人が本書を読んでも小難しいことを書いているだけと思うだろう。
ただ、ここで述べられている世間というものと学問の関係性は決して古びるものではないし、教養として持っていることはとても大事なことだと思う。特に、日本人が「学問」として認識しているものが〈生活世界〉に対して本来は延長線上にあるということ、そして知ったかぶっていることを真に考えるということの重要性は、こと今日ウェブという空間で飛び交う空虚な言葉を切り払うためにも重要だ。
個人的には同志社大の三輪教授のエピソードが、明星大の関教授の調査手法と重なり非常に印象的であった。このエピソードを読んだだけでも本書を読んだ価値はあったと思っているし(若干口はばったいけども)世の中に紹介するに値する一冊だと確信している。

まえがき

第一章 日本と西欧における人文科学の形成――世間と個人――
 第一節 日本の人文社会科学者たちはどのようにして養成されてきたか
 第二節 西欧における個人の起源と人文諸科学の展開

第二章 日本の学問の現在
 第一節 日本の学問の形と教養概念
 第二節 人文諸科学は他の学問とどのような関係をもっているか
 第三節 大学や大学院でもは何が行われているか
 第四節 研究と教育はどのようにして支えられているか

第三章 フッサールの学問論と日本の「世間」――〈生活世界〉の発見――
 第一節 フッサール現象学における〈生活世界〉とは何か
 第二節 〈生活世界〉の刑法学
 第三節 〈生活世界〉としての「世間」

第四章 日本の学問の課題――〈生活世界〉の探求――
 第一節 家政学の現在
 第二節 〈生活世界〉の中の教養
 第三節 合理的な近代化のシステムと歴史的・伝統的システム(「世間」)の狭間で
 第四節 学問の再編成に向けて――大学の役割

あとがき
参考文献

ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界(阿部謹也/ちくま文庫)


阿部謹也さんというと、ぼくからするととても微妙な思いを抱えた先生だ。正直なところを言えば早くて中学生、ふつう高校生、遅くても大学生までには「読んでいるべき」であって、三十路を手前にして今更読み始めるということの恥ずかしさというのがどうしてもある。その一方で、ぼくの知っている若い世代に一刻も早く紹介したいし、その知のエッセンスというもの、そしてその面白さや楽しさというものを教えてあげたいという思いも同時にある。さらに言えば、ぼく自身歴史というものがとても好きだしその中で阿部さんの築き上げてきたものは自分の中に得たいものだ、という知的好奇心もある。
そういった複雑な心境の中で読んだ感想というのを前提にぼくの書評を読んでほしい。
多くの「おとぎ話」(敢えて本書の表現から外れたこの書き方をする)には下敷きになる(事実というには曖昧模糊とした)出来事が存在する。また、同時に当時の時代を反映した背景もまた存在する。
ハーメルンの笛吹き男」。読者諸賢も小さいときに「おとぎ話」として見聞きしていることだろう。実際、ぼくも幼稚園のときに学芸会でやらされたもんだ(そこでとちって、会場大爆笑というすべったんだかすべってないんだかわからない経験をしたのだが、それはさておく)。だが、この話はただの「おとぎ話」ではないと著者は言う。本書でも記述されている通り、1284年6月26日に当時のハーメルン市の規模から言えば相当規模の失踪者が出たという史実が存在する。そしてかつて様々なひとたち(そこにはライプニッツというビッグネームも存在する)によって興味深いミステリーとして、研究の対象になった。本書はこの「ハーメルンの笛吹き男」というミステリーに対してかなり明確かつ明瞭な解答編となるものである。
敢えてここではその解答編の内容については言及しない。ミステリーのネタバレというのは避けるというのが著者への礼儀というものだろう。だが、先に述べた「おとぎ話」の下敷きとなる出来事、そして時代背景というものが次第に明確になっていくのは、まさに名探偵が謎を解き明かす瞬間のような快感を与えてくれると思う。
そして、本書を読み進めるにあたって歴史というものが無味乾燥な単純暗記ではなくて、豊饒な乳と蜜の流れる地そのものということを悟るに違いない。若い世代が「勉強」させられている「歴史」はあくまでも通史という「幹」の部分であり、そこからきわめて豊かな枝葉、そして花や果実が実っているのである。だからこそ「幹」をしっかりとさせるという意味で「歴史」の「勉強」は大事なのだ。とはいえ、そればかりではつまらないというのも事実。そういう意味では本書のような豊饒な果実をたまには齧ってみるというのも必要かもしれない。
そういった意味では是非とも若い世代、それも大学に入る前の少年少女たちに読んでほしい本だ。確かに簡単に読み進められるような本ではない。内容としては大学生や大学院生に向けて書かれた、かなりレベルの高い本であることは間違いない。ただ、これを一冊通読した上で再び「歴史」の「勉強」に向かったとき、日ごろ学んでいるものの重要性や面白さが理解できるようになるだろう。

〇第一部 笛吹き男伝説の成立
 はじめに
 第一章 笛吹き男伝説の原型
  グリムのドイツ伝説集/鼠捕り男のモチーフの出現/最古の史料を求めて/失踪した日付、人数、場所
 第二章 一二八四年六月二六日の出来事
  さまざまな解釈をこえて/リューネブルク手書本の信憑性/ハーメルン市の成立事情/ハーメルン市内の散策/ゼデミューンデの戦とある伝説解釈/「都市の空気は自由にする」か/ハーメルンの住民たち/解放と自治の実情
 第三章 植民者の希望と現実
  東ドイツ植民者の心情/失踪を目撃したリューデ氏の母/植民請負人と集団結婚の背景/子供たちは何処へ行ったのか?/ヴァン理論の欠陥と魅力/ドバーティンの植民遭難説
 第四章 経済繁栄の蔭で
  中世都市の下層民/賤民=名誉をもたない者たち/寡婦と子供たちの受難/子供の十字軍・舞踏行進・練り歩き(プロセッション)/四旬節とヨハネ祭/ヴォエラー説にみる〈笛吹き男〉
 第五章 遍歴芸人たちの社会的地位
  放浪者の中の遍歴楽師/差別する側の怯え/「名誉を回復した」楽師たち/漂泊の楽師たち

〇第二部 笛吹き男伝説の変貌
 第一章 笛吹き男伝説から鼠捕り男伝説へ
  飢饉と疫病=不幸な記憶/『ツァイトロースの日記』/権威づけられる伝説/〈笛吹き男〉から〈鼠捕り男〉へ/類似した鼠捕り男の伝説/鼠虫害駆除対策/両伝説結合の条件と拝啓/伝説に振廻されたハーメルン
 第二章 近代的伝説研究の除雪
  伝説の普及と「研究」/ライプニッツ啓蒙思想/ローマン主義の解釈とその功罪
 第三章 現代に生きる伝説の貌
  シンボルとしての〈笛吹き男〉/伝説の中を生きる老学者/シュパヌートとヴァンの出会い
 あとがき
 解説 泉のような明晰(石牟礼道子
 参考文献