伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

砂の薔薇(新谷かおる/白泉社文庫)

   
   
PMC(Private Military Company)というものがある。簡単に言ってしまえば傭兵とかの派遣会社のようなものだ。ずいぶんと昔からこれに類するものが存在していたが、最近イラク戦争とかの関係で注目されるようになってきた。もちろんこの注目は基本的にはネガティブな文脈で語られることが多いのだが、現実的に自国軍で手が回らないところが多い昨今(とくに歩兵戦力は政治的理由もあってなかなかフルには難しい)必要悪のようなところはある。
本作はそんなPMC――CATに所属する美しい女性たちのテロとの戦いの物語だ。空港爆破テロで夫と子供を失った主人公、真理子・ローズバンクを指揮官とした傭兵部隊がテロをぶっ潰して回るという筋書きである。
あくまでもフィクションであるという前提が必要ではあるが、PMCというものに着眼した著者の発想には瞠目せざるを得ない。何しろ本作は1990年代初頭に書かれたものなのだ。まだまだPMCというものが一般的には未知なるものだった時代に、ここまで精緻に物語をくみ上げるとは、いやはや驚きである。
さて、対テロを主任務とするPMCを舞台にしている以上、それについて考えなければならない。彼女たちはテロを憎む。それは、政治的要求を通すために罪のない一般市民、とりわけ子どもたちが犠牲になるということが許せない、と物語では述べられている。なるほど、PMCというものが持つ影の部分にあまり言及せず主人公たちをある種の「正義の味方」とするには巧い筋書きである。
無論、テロ行為というのは非常に嫌らしい「犯罪」である。実際、つい最近のボストンマラソンでのテロでは、子どもが犠牲になるなどしたし一般市民も巻き込まれたと聞く。だいたい、ふつうのこういったイベントでドンパチやられた日にはたまったものじゃない。はっきり言って迷惑極まりない。若干下品かつ冒涜的な比喩をお許し願うならば、バキュームカーを歩行者天国に持ち込んでうんこをまき散らす以上に迷惑な行為だ。爆弾テロなんかやられた日にはうんこが臭いとか言ってる場合じゃないわけだし。
ただ、本作を読んでいるとどうしても対テロという立場からの独善を感じざるを得ない。実際、テロという手段を用いねば政治的主張そのものが無視されている立場のひとたちはどうするんだ? という疑問が浮かんでくる。例えばパレスティナにおけるイスラム過激派なんかもその一つである。松本仁一さんの「ユダヤ人とパレスチナ人」にもある通り、現実的にイスラエルによって「圧政」を敷かれているパレスチナ人はその現実を受け入れるしかないというんだろうか? そりゃ、テロという行為がタチの悪い「犯罪」であることは言うまでもない事実だ。だけども、それをしなきゃやってられないというもう一つの事実はどうなるんだろう。実際本作でそういった複雑な事情を抱えた地域での物語は一切ない。実際、著者も書ききれないだろうし、物語としても非常に重苦しい、エンタテイメントとしてはつまらないものになってしまうからだろう。それは仕方がない。だけども、そういった批判的パースペクティブをどうしても私は持ってしまうのだ。
エンタテイメントとしては(連載が青年誌だったということもあり、多少エロティックな描写が多いのは事実だけども)一級品で、純粋に楽しめる作品ではある。ただ、これを読んだときに多少なりともこういった別のパースペクティブを持てるだけの多様性と教養は持ち合わせて欲しいとぼくは思う。

ブレーメンⅡ(川原泉/白泉社文庫)

   
川原泉というと短編に定評のある作家という印象がある。というか、長編を書ききる体力があんまりないという表現の方が適切だろうか。実際、メイプル戦記も休載を連発していたし、続き物のエッセイ漫画である「小人たちが騒ぐので」も最後の方はボロボロだった印象がある。だが、そうはいっても凡百の漫画家には及びもよらないストーリー構成力はさすがだ。実際、長編は書けても短編がダメな漫画家は一杯いるわけで、あとはアシスタントとの分業をどうするか、というマネジメントの部分をもうちょい編集がサポートしてやればもっと多作になるのに…… と大変惜しい気分に陥ってしまうのはぼくだけだろうか?
さて、本作はその川原泉による長編SFマンガである。SFといっても、ややこしい話ではない。あくまでもSFは道具立ての部分だけであって、基本的にはコメディタッチの読み易い作品だ。このお話の中で「ブレーメン」という動物を改造したものが出てくる。そんな動物たちに主人公であるキラ=ナルセ船長は当初不信感を抱いているが、次第に彼らが同じ船を動かす仲間だという認識に変わってくる。そういった、言わば差異に対する認識の変化というところが物語の根幹となっている。この部分が評価されてなのか、第四回(2004年度)のセンス・オブ・ジェンダー賞の特別賞を受賞していたりもする。実際、物語としてはさすが川原泉と思わせる、読ませるものになっているしこの受賞自体をそれほど非難するつもりはない。だが、敢えてぼくは批判的な立場に立って批評したい。
というのも、差異に対する認識の変化ということに対してぼくはちょっと物申したいからだ。なんとなれば、昨今のウェブ上をにぎわす言説からすると、酷く楽観的な気がしてならないからである。例えば国籍や性別、人種その他もろもろをひっくるめて、差異の部分に対する意識というものは途轍もなく低いものだと言わざるを得ない。実際、新大久保だの鶴橋だので排外運動をやらかすような連中が大手を振っている(そして、それを世間は受容してしまっていると言わざるを得ない風潮がある)ことを見るにつけ、どうしても本作の展開に対して「おとぎ話的」な感覚を抱いてしまうのだ。
むろん、この物語の根幹の部分についてはぼく自身は同意だ。だが、こんなに「おとぎ話的」な感覚に対して(悪い意味での)イノセントさを感じてしまう。実際、これだけ差異に対して排外的なヤツがある出来事で簡単に改心なんかしねぇだろ、とか思ってしまうわけだ。
また、本作には実の所非常に些細なダブル・スタンダードがある。ブレーメンに対する差異を受け入れた主人公は、実の所もう一つの差異――リトル・グレイに対する差異を決して受け入れているわけではない、ということである。無論、これは一種のギャグ描写であるのは間違いないのだが、実の所反差別というところにおいてもこのようなダブル・スタンダードが横行していることを考えると、色々と思う所がある。
物語としては大変に面白い作品だ。そういう面では全力でオススメできる一冊である。だが、それと同時に「差異」というものに対する楽観とダブル・スタンダードの問題についても是非とも考えてほしい。そういう作品だと思う。