伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

ベトナム戦記(開高健/朝日文庫)


サントリーというと言わずと知れた洋酒メーカーだが、その一方で優秀な文人を輩出していたりする。「江分利満氏の優雅な生活」で一躍有名になった山口瞳やマカの宣伝やエッセイで名をはせた斎藤由香などである。その文人としての先駆者であるのが著者の開高健である。「裸の王様」で芥川賞を受賞したのち、様々なルポルタージュで文壇を賑わした人物だ。本書は同氏による百日にも及ぶベトナム滞在時のルポルタージュを纏めた一冊だ。
日本人にとってベトナム戦争というのは、いささか遠い出来事である。少なくとも公式には戦地で戦ったわけでもなく、せいぜい市民団体がベトナム反戦運動をやっていたくらいで、むしろ同時代の出来事としてはこれにまつわる学生運動の方がトピックスとしては挙がるくらいだ。逆にミリタリクラスタからすればベトナム戦争というのはある種「ジャンル」として消費されており、その実態だとかそういった部分について深く考察する向きは案外少数だ。
本書はそんな遠いベトナムという地を色鮮やかに活写している。戦地のルポルタージュというと、今では宮嶋茂樹さんが日本の第一人者になっている。実際にイラク戦争のルポルタージュでは、爆弾が大量に落ちてくるわ戦車の砲弾が近くの外国人プレスの部屋に落ちてきて死にそうになるなど、物凄いエピソードが書かれている。時代も違う、著者のベトナム戦争についてのルポルタージュなんて今更読む必要があるのか疑問に思う読者もいるかもしれない。
だが、違う。ここに描かれているベトナム戦争での「戦争」の姿というのは、今起きている戦争に共通する姿を持っている。それは、戦地と後方の温度差というものだ。ベトナムという戦地では毎日のように死者が出てそれが統計の数字としてしか消費されないくらいに「日常」となってしまっている。一方の後方であるアメリカでは、そもそもベトナム戦争について知らない市民が多数派だ。これを嘆くアメリカ兵の姿がとてつもなく印象的だ。
イラクやアフガンでの戦争は、アメリカという後方からはまったく切り離されたものとなり、戦地に行った将兵――そしてその家族だけが戦地という現実を受け取らざるを得ない状態となっている。この温度差というものを今読むことで肌で理解することができると思う。
以前「シビリアンの戦争」でも取り上げたけども、戦地から切り離された後方において戦争というものについてとかく無責任な態度でイケイケドンドンな態度を取るひとたちが増えている。そのツケを払わされるのは軍人やその関係者、そしてその国のひとたちだ。そして最終的には後方にも「戦費」という形で返ってくる。だけども、それに気づくのはよほど後になってからだ。事実、アメリカにおいてもこういった問題が認識されたのはブッシュ政権の末期になってからだ。そしてその後のオバマ政権が「負の遺産」の処理に苦しむという頭の痛い構図が存在する。
ぼくらが戦争というものがどういったものか認識する一つの手助けとして、本書は非常に優れたものだと思う。戦地帰りの勢い任せで読みにくい部分は多少あるけども、腰を据えて読む価値がある一冊だと思う。

日ノ丸をいつもポケットに…
ベトナムのカギ握る? 仏教徒
ベトナム人の“七つの顔”
“日本ベトナム人”と高原人
ベトコン少年、暁に死す
“ベン・キャット砦”の苦悩
姿なき狙撃者! ジャングル戦
ベトナムは日本に期待する
あとがき
解説 限りなく“事実”を求めて(日野啓三

アフリカを食べる/アフリカで寝る(松本仁一/朝日文庫)

衣食住という言葉がある。服を纏い、飯を喰らい、そして寝る。そんな人間の有様を巧い具合に言い表した言葉だと思う。本書はアフリカの「飯」と「寝る」を綴った一冊だ。以前読んだ「カラシニコフ」(こちらの書評も書いている(カラシニコフカラシニコフII。ご参考まで。)から著者の本を読んでみたくなり衝動的に手に取ったが、これは本当にアタリだった。もしかすると銃という日本人にはどうしてもとっつきづらいテーマからアフリカを読み解いた前述書よりも、もっと身近な「飯」や「寝る」というテーマを扱った本書の方が読み易いかもしれない。

筆者が本書のもととなった記事を書いたのが1994年から1996年、そして実際に現地に居たのはそれよりも前のこと。アフリカという地では今も昔もドンパチやっている。実際、先日アルジェリアではプラント関係でテロがあり日本のプラント技師が犠牲になっている。ぼく自身も意外と他人事じゃない世界なのだ。そしてそのドンパチの種類も権力闘争(これは「フンタ」というゲームをやればよくわかるだろう)から民族紛争、ゲリラに反政府運動、それに先述のテロひとそろいあるわけだ。

当然ワリを喰うのは市井のひとびとなわけで、実際本書の中でもルワンダの難民キャンプや干ばつ被害による飢餓など深刻な話題にも触れられている。だが、そんな頭の痛いテーマを真っ正直に書いたものを読んだところで(知識はつくのかもしれないが)読み手も頭が痛くなるだけだ。だが、本書は違う。

何しろ「飯」の出だしが「ヤギの骨」に「牛の生き血」である。もう、これは読むしかないではないか。無論、ただのゲテモノ食いの話に終わってないのが筆者の凄いところだ。マサイのひとびととヤギの骨をかじり牛の生き血を飲む中で、その蓋然性を感じとり文化を見出す(そして筆者一流のバイタリティでそれを体験する)。そして、その感性のもとにドンパチの派手さに隠れて見えない市井のひとびとのワリを喰う具合を活写する。これは読み手を惹きつけないわけないではないか。

正直、著者のバイタリティと「飯」に対する情熱には脱帽だ。なにしろ、自らウナギをさばき、丸のままのアヒルを買って「カイロダック」としゃれ込む。インパラの生肉を刺身にするわ、羽アリを「ハチの子の佃煮」よろしく砂糖醤油で炒めて食べてしまう。これだけ見るとゲテモノ食いにしか見えないかもしれない。違うのだ。これは一度読んでみて欲しい。

後編の「寝る」編もなかなか仰天のエピソードが満載だ。前篇の圧倒的なバイタリティが取材にも活かされたということがよくわかる。マサイのひとびとの長老夫人宅(彼らの場合妻帯者は「長老」ということになるそうな。一夫多妻制でダンナは奥さんのテント(これは奥さんの持ち物だそうだ)に泊まり歩くとのこと。)に泊めてもらったり、宿場にある安宿で売春婦に付きまとわれたり、「飯」の話に負けず劣らずの迫力だ。

読み手によっては、著者の記述に反発を覚えたり鼻白む向きもあるかもしれない。ただ、この皮膚感覚で著述されたアフリカという空間における「飯」と「寝る」については、否定することは出来ないだろう。

正直に言おう。アフリカの深刻な問題に興味が無くとも是非読んでほしい。それだけの力が本書にはある。特にTRPGをやっていたり、小説を書きたいという人は必見。本書で得た何かが、シナリオ作りやロールプレイ、物語の奥行に説得力を持たせてくれるだろう。もちろん、もっと真面目な観点から読むのも大歓迎だ。筆者の描くアフリカを切り口にさらに読み進めればより深い理解を得られることは間違いない。

繰り返しになるが、是非一度読んでみてほしい。それだけ大絶賛せざるを得ない魅力が本書には詰まっているのだから。

カラシニコフII(松本仁一/朝日新聞社)

前作の「カラシニコフ」が「失敗した国家」という非常に大きなテーマを扱っているので、どうしても期待が大きくなってしまうわけだが、本作はちょっともにょってしまう感じなのがちょっと残念。本作は前作でアフリカの諸国家のような「失敗した国家」ではなく「普通の国々」や「努力している国々」におけるカラシニコフの問題を中心に取り扱っている。

1章のコロンビアのケースは「政府に国家建設の意欲はある。しかし、アンデスという統治しにくい山地を国内に抱え込んでしまったため、治安確保の手が及ばないのだ。」と述べている。つまり地勢的問題(この地域はコカイン密造でも有名だ)から「失敗国家」の要素が地域的に発生してしまうという問題を抱えているわけだ。そこに本書の主役「カラシニコフ」が絡んでしまっている。驚くのがノリンコの「粗悪な」スポーターモデルが千ドルという高値で取引されていることだ。もっとも支払いはコカイン。つまりはその筋の方々によるあまりよろしくない取引が横行しているわけだ。この取引は本来こういう動きに対して敏感であるべきな米国の銃器通販業者が絡んでいるというのだから、驚き。実際に米国当局にとっても頭の痛い問題なのだという。

本書がスゴイのはこの話をカラシニコフ御大本人にインタビューしているところだ。当然御大はオカンムリ。ライセンスが切れているにも関わらず勝手に改設計して輸出を続けるノリンコに「開発者として不愉快だ」とまで言っている。

また、4章のAK密造の村を取材した話は目からウロコもんだった。密造銃というと、どうしたって「サタデーナイトスペシャル」なシロモノを想像してしまうのだが、ところがどっこいこの村の密造銃はレベルが違う。銃身の鍛鉄や引き金の鋳鉄といった重厚長大な設備が必要な部品は外注して、それ以外の部品をすりあわせしながら組み立てるという、なかなかどうして凄いことをやっている。ちょっと不謹慎かもしれないが、関満博教授(明星大)の産業集積の話を思い出してしまった。何となれば、日本の町工場ネットワークのようなものがここには形成されているのだ。そういう観点で見ると実は物凄くレベルの高い世界なのだ。勿論、職人の腕前によって出来不出来があったりして安定しない側面はあるのだが、それでも実用面ではほぼ問題無いと売ってる側が言ってるのだから凄い。ただし、ちょっとマニアックな視点で言えば銃身のライフリングが鍛造じゃなくて切削な分強度に劣るところはあるそうな。とはいうものの、銃に詳しい向きに尋ねるとよほど究極的な精度を求めない限りはあまり関係無いとのこと*1。いやはや「密造銃」とあながちバカにできたものじゃないと思えるところが凄いし驚きだ。

また、イラクアフガニスタンの国軍再建に東欧製のAKデッドコピーを使っていることにロシア政府やイジマシュがアメリカ政府にクレームを入れている話はなかなか興味深い。これ単体の話は傍から眺めて指さして笑うべき話なのだけども、そうも言ってられない側面がある。言ってみれば、知的財産権という観点での「ならず者国家」に口実を与えるような話にならないのかな、と。むろんパテントを軽視するような国家がどうなったかは1945年8月15日を見ればいいわけだけど、それでも先々を考えてあまり面白いこととは言ってられない。ちょっと軽挙だなあと思わせる話。これも非常に興味深い報告だ。

と、ここまでは面白い話が沢山転がっていて、日本の銃器ヲタクにも是非一読を勧めたいところなのだが、この後の章でまた雲行きが変わってしまう。アフガニスタンイラクの話について、むろん読むべき内容は沢山あるし本当に労作だと思う。軍ヲタクラスタならずとも読んで損は無い。強盗に自宅を襲撃されたアフガニスタン運輸省技術課長のアブドル・ラティフの「銃は国家だけが持つべきなんだ」という証言は非常に重いし、今後のアフガニスタンイラクを考える意味でも、非常に重要だと思う。

それでも現在進行形の話(そして朝日新聞的にあまり歓迎されないイラクアフガニスタンの米軍進駐の話)だけに、どうにもまどろっこしさを感じてならない。もっとここらへんは単純化してもよかったように思う。そして個人的に一番疑問符をつけたくなるのが国家観のところ。もちろん言っている内容は至極真っ当なものだ。ただ、それがここまで大上段に語られると若干鼻白んでしまう。ここらへんは受け取る人によって違うとは思うのだが。

それでも本書の価値は褪せるものではない。所々にある軍ヲタなら爆笑できるエピソードも健在。個人的にはノリンコが日本向けアルミサッシをやっているということは初耳だった。ぶっちゃけどこの会社向けなのか気になってしまった。

軍ヲタクラスタにもそれ以外の人にも一度読んでおくことをお勧めしたいと思う。少なくとも日本の外にはこういった問題があるということを知るもよし、純粋に軍ヲタの知識増強でもいい。知識はそれそのもので価値があるのだ。

*1:そもそも、AK-47自体の原設計を考えれば精度を求めることにあまり意味はない

カラシニコフ(松本仁一/朝日新聞社)

2004年7月上梓の、今となってはだいぶ古い本だがそれでも読む価値は十分にある。幸い、朝日文庫に「文庫落ち」しているので比較的お手軽に入手できるはずだ。是非、老若男女問わず「朝日だから」などと言わずに読んでみてもらいたい。

とはいうものの、前半の少年/少女兵の話は些か不謹慎かもしれないが「よくある話」という印象を覚えると思う。カラシニコフへのインタビューも当時としてはソ連クラスタには生唾もんだったかもしれないが、今となってはそう珍しくもない。なにせ、ホビージャパンの「ぴくせる☆まりたん」にコメントを寄越したなんて話もあるし、本人の口述本も出てる。ソ連クラスタの向きにはそちらをおすすめした方がよさそうだ(や、ぴくせる☆まりたんではなくてね。あれもおもろいけど)

本書の眼目は四章の「失敗した国家」から。フォーサイスへのインタビューで語られたこの言葉が本書をただの「銃ヲタ向け本」や「観念平和本」と一線を画すものにしている。フォーサイスの言う「失敗した国家」とは。彼は「国づくりができていない国、政府に国家建設の意思がなく、統治の機能が働いていない国」であると言う。 また、このようにも語っている。「失敗した国家はわずかな武力でかんたんに崩壊する」。なにせ赤道ギニアの政府転覆疑惑(本人は本書で否定しているが)があるフォーサイスの発言。これは重い。というか赤道ギニアがそういう「失敗した国家」だと言っているようなものである(「戦争の犬たち」のモデルは同国なのだ)。

また、国連などの仕事で紛争地での医療に携わる喜多悦子が語る「失敗した国家」を見分ける方法は先進国である我々にも重たい言葉だ。 「警官・兵士の給料をきちんと払えているか」「教師の給料をきちんと払っているか」。これも不謹慎で無責任かもしれないが、本来遠いアフリカのドンパチ話がどうにも既視感を覚えてならないのは気のせいだろうか? と、まあ重たいことを長々と語ってみたところで軍ヲタども向けの話に移ろう。

我々系の歪んだ歴史ヲタクは、同時代と比較して「アリエナイ」ほど先進的な道具・技術・知識その他を「オーパーツ」と呼んでいる。 まあ、半径3m程度のジャーゴンではございますが、ニュアンスは解ってもらえると思う。で、このカラシニコフもそんな「オーパーツ」の一つに挙げられる。 しかし、本文中に語られる突撃銃として、ではない。 「機械は単純であれば壊れない」という設計思想がオーパーツなのだ。何しろ機械というものは、エンジニアという細かいことが大好きな人種によって開発されるが故に、どうも精緻なものになりがちだ。 別に偏見ではなくて、これは実体験の話だ。こと、日本人だのドイツ人が作るものはその傾向が酷くて……という話は本筋から外れるのでやめておく。 ここでカラシニコフの設計思想の話になる。「機械は単純であれば壊れない」これは物凄く重要でそれでいて忘れられがちな価値観なのだ。

多分、これを読んでいる大多数の人は「何を当たり前のことを」と思うだろう。そうだ。当たり前のことなのだ。 しかし、当たり前のことを実現することのなんと難しいことか! そしてそれをカラシニコフは実現してしまったのだ。それもソ連という(当時は準戦時体制だったとはいえ)官僚主義に満ち溢れた国で実現してしまったこと、そしてこの設計思想が後の工業デザインで「モジュール化」という形でようやく実現したことを思うと「オーパーツ」と評さずにはいられない。

私の場合、ミリタリと言っても銃そのものには興味が無くて、それを支える生産やロジスティクスといったニッチ極まりない分野が大好きな歪んだヲタクだ。そんな歪んだヲタクにとって、こんな時代を超えた設計思想というのはまさにご馳走なのだ。

さて、そんなヲタクヨタ話はこの位にして。 まずはAmazon(別にセブンネットでも楽天でもいいけどさ)でポチって読んでみることをおすすめする。 銃が嫌いでも、戦争を知らなくても、知っておくべきことは沢山あるのだ。