伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

技術大国幻想の終わりーーこれが日本の生きる道(畑村洋太郎/講談社現代新書)

大変久しぶりであります。いちおうこのブログは「書棚」と書いている通り書評をウリにしているハズなんですが、いつの間にか全くやらなくなってしまったので、再開したいと思います。

多少生産技術や機械工学に足を突っ込んだひとからすれば、畑村洋太郎氏を知らないのは要するにモグリといえよう。ちょうどコンサルタント界隈で関満博*1を知らないのがモグリと云われるのと同じくらいと言って過言ではない。
失敗学に関しては生産技術関係だけではなくて、システムエンジニアリングの世界でもかなり有名になってきて、かなり耳にする機会も多くなってきていたり、東京電力福島第一原子力発電所事故に関しては事故調査・検証委員会の委員長も務めていて、産業・学問の領域を超えたある種著名人にまでなっていると言ってもよいだろう。

それだけに書店で本書を見かけた際に期待があまりに大きかったわけだが、正直期待はずれであった。

*1:明星大学教授。フルセット型産業構造を超えて 東アジア新時代のなかの日本(中公新書)と現場主義の知的生産法(ちくま新書)はいかなる業界関係者でも一読の価値がある名著

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今日のはてブ(2014/10/04)

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今週の疲労が酷くて日中熟睡してしまいました。いやこれマジでアカンやつや。


米メディア報道:アップルが新製品発表イベントを10月16日に開催 : ギズモード・ジャパン
[iPad][イベント][IT][Apple][Mac][タブレット][プロダクト][スマートデバイス]iPad miniはiPhone6 Plusに統合する形でディスコンへ、現行iPadサイズが標準モデルになって新サイズの大型iPadが家庭用のタブレットという位置付けになると予想


スマートフォンの横幅、3年間で1cm広がる - ケータイ Watch
[サイズ][スマートフォン][Android][iPhone][画面][タブレット]6~7インチタブレットとの収斂過程の動きかと。たぶん6インチサイズくらいで止まるんじゃないかな。


(追記)再三触れてますけども、iPhone6 Plusがリリースされた時点でiPad miniは歴史的役割を終えたものと考えています。なんとなれば、スマートフォンに分類されるスマートデバイスが小型7インチクラスタブレットと収斂する動きが決定的になり、存在意義を確実に失うことになるからです。このあたりを担うデバイスはPCアーキテクチャでは難しくて、ベンダーこそ複数居るもののある程度淘汰されてくるんじゃないでしょうか。小型化とバッテリマネジメントというのは、ノートPCの例を見てもわかるとおり一朝一夕でなんとかなるものでもないですし。
一方でタブレットです。恐らく家庭用/企業内運用で基本的には持ち出さない性質のサイズと営業活動におけるプレゼンテーション/コミュニケーションツールとしてのサイズに二極分化するんではないでしょうか。そう考えればiPadのサイズラインナップが大きくなる方向で増えるのは、その潮流通りの進み方ということになります。
タブレットに関してはノートPC側(MicrosoftIntel/ノートPCベンダー)の巻き返しも凄くて、Surfaceは「ノートPCとしても使えるタブレット」としてそれなりに日本国内でも浸透しつつあります。艦隊これくしょんという誰もが意図していなかったキラーアプリがあったという要素はありますが、iPadのようなタブレット運用しか基本的には考えていない端末の問題点を補うというアプローチは蓋然性があるし、受け入れられるのも納得できます。「タブレットとしても使えるノートPC」としてはPanasonicのLet'snoteですね。相場からいけばかなりお高いですが、ビジネスシーンとりわけ日本の通勤事情を考えると企業向け販売でそれなりの数が捌けるし、商売としては一定の位置をこれからも占めるものと思われます。
そう考えると、タブレットのマーケットに関していえばまだまだ最終的な収斂結果は見えない感じですね。

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今日のはてブ(2014/09/09)

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サイバーエージェントのGitHub活用 ~ 導入から運用体制、開発フロー、勉強会による現場への普及活動まで (1/3):CodeZine
[github][git][開発][cyberagent][サイバーエージェント][事例][導入事例]企業でのGitHub導入/活用事例。お仕事向きのお勉強ネタとして。

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任侠学園(今野敏/中公文庫)

現実に存在しない情景を描くことをファンタジーというならば、所謂「任侠モノ」というのは大層ファンタジーな代物であろう。古くは高倉健主演のヤクザものなんて、まさに当時においても幻想の産物であろうし、新しいところで言えばドラマの「マイ☆ボス マイ☆ヒーロー」なんかもわかりやすくファンタジーだった。付け加えるならば浅田次郎の描くところのコミカルなヤクザもあれだってファンタジーだ。作中、時代遅れというエクスキューズはあるから、そこを認識してのキャラクター造形とお見受けする次第。
さて、そんなファンタジーな連中をただ幻想のものとして遊ぶのはつまらない。世は大クロスオーバー時代である。傭兵と超人プロレスラーとアニメキャラの美少女とアスキーアートで描かれた白饅頭が伝説の雀士に率いられて野球をする時代である。
本作で描かれるヤクザはある種伝統的な幻想に則ったヤクザである。縄張りの素人衆のために身を張って渡世を生きる彼らはそれこそ極めてわかりやすい渡世人(※)という類の任侠である。
そんな彼らがクロスオーバーするのは、落ちこぼれだらけの崩壊した高校である。その場所が三鷹――中央線沿線というのがまた微妙にリアルである。ぶっちゃけ、あの界隈はちょっとまともな連中であれば気の利いた公立校かさもなくば名門私立に進学する。自然、落ちこぼれだらけの高校があってもおかしくない。
作中、幻想のヤクザらしいやり方で学校を建て直すのだが、その中身は読んでのお楽しみ。実際、ちょっと読み足りないなぁと思う分量なのだが、肩の力を抜いた読書の対象としてはうってつけである。大衆小説、かくあるべし、なシロモノだ。見かけたら買って読んでみても損は無いだろう。

(※)作中の描写で博打を開いている描写が無く、そういう収入源がなくミカジメ中心なのでこの表現が適切だろう。もしかしたらどこかの神社でテキ屋をやってるかもしれないが。

詳説 世界史(世界史B 新課程版)(木村靖二、佐藤次高、岸本美緒/山川出版社)

 大学入試で求められる知識ーーわかりやすく言うならば試験科目と言い換えてもいいーーは、何故今の体系なのだろうか? 身も蓋もない言い方をしてしまえば、文部科学省の定めた高等学校教育の範疇に従っているだけなのだが、それにしてもいろいろな選択肢がある。英語、数学、理科、国語、そして地歴公民。さらに言えば、技術やら家庭、芸術、体育なんて科目も高等学校教育では扱う。それどころか、普通科では扱わないような科目、農業高校には畜産や工業高校には自動車、それに商業高校には簿記だって存在する。
 大学という場がただの職業予備校としての存在であれば、極論、体育試験をやって体力の無い連中を切り捨てた上で、実務に直結するような科目を試験にするという判断だって、あってもおかしくはない。
 だが、現実的には大まかに次のような分類になっている。

 ・英語・数学・理科・国語・地歴公民の組み合わせ(国公立大学や一部私立大学の理系に多いパターン)
 ・英語・国語・地歴公民の組み合わせ(私立大学の文系学部に多いパターン)
 ・英語・数学・理科の組み合わせのパターン(私立大学の理系学部に多いパターン)

 何故、大学はこれらの科目を試験において課すのだろうか? 一つの思考実験として考察してみたい。

 例えば、英語。大学において英語の文献を読みこなすことは、殆どの学問領域において求められる。よって、試験でその能力を課すことには必然性がある。
 国語も同様。文献を読み解く能力というのは、ある一定以上の日本語読解力が求められるし、さらにいえば膨大な文献を読み解くある種の「体力」が必要となる。数学や理科については言うまでもないだろう。理系分野においてはこれらの基礎知識が無いと話にならない。
 では、地歴公民というのは何故必要なのだろうか? 高等学校で扱うような内容というのは、極論すれば大学教育の基礎となるようなものではない。何故ならば、大学において扱う領域というのは個々の分野を深堀したものであって、高等学校教育の地歴公民で扱うような「広く浅く」という知識が求められるものではない。
 しかし、私はこの分野の知識は最低限必要だと考える。それは「教養」として必要だ、ということである。何かしらの問題(課題)を論ずるにあたって共有すべき情報というのは存在して、それを世間では「教養」と呼ぶ。
 例えば、システム領域で言えばAPIのようなものだし、オタク的に言えば東方Projectをやっていると、色々なこと(例えば音楽系二次創作を楽しめるとか)を楽しめるというようなものだ。つまり、物事にアプローチするための共通基盤として存在するものだと考える。

 さて、前置きが長くなったが今回はそういった前提を理解した上で、「詳説 世界史B」(/山川出版社)を取り上げたい。山川の日本史や世界史の教科書といえば、大学入試の世界ではデファクトスタンダードと言って過言ではない。つまり、大学で求められる歴史分野の「教養」として共通に求められる内容を収載したもの、と言える。そういった意味では読んで損となるものではないだろう。
 むろん手放しで評価するわけにはいかない。教科書として漏れなく記述するという前提がある以上、各地域史を一定の区切りで述べるという形態の繰り返しである(物凄く乱暴に言えばアミダくじみたいな感じね)。歴史を学ぶ上で必要になってくる地域内の歴史的つながり(タテのつながり)や同時代の地域間のつながり(ヨコのつながり)という観点では非常にわかりにくいものになっている。これは、大学受験という観点でも非常に不便であって正直どうにかならんもんかと昔から思っていたが未だにここは改善されるフシが無い。
 また、あくまでも通史なので個別の論点については非常に弱い。例えば古代で言えばローマにおけるある皇帝の所行だとかそういったことはサラッと触れられているに過ぎない。大学受験の実態では予備校講師や高校教員がひとくさり語ることを覚えるとか、本書の教員向けガイドに近い「詳説 世界史研究」を読みながら対策する、はたまた用語集と年表と地図帳を首っ引きで勉強するなんて力業で対応していたりするのだが。

 ところで、世界史や日本史の教科書は以前日垣隆が著書の中で「レファ本」という概念で紹介している。この概念の中で紹介している本について、ぼくの中でも賛否色々あるのだけど、本書については日垣に同意だ。どちらかと言えば通読する本ではなくて、興味があること、調べなければならないことを辞書的に引くというスタイルが一番便利だと思う。これは日垣が述べるような自己啓発、ビジネス本的な教養だけではなくて、もっと卑近なこと、ゲームや小説の中での興味でも有効だ。これは歴史をテーマにしたものじゃなくてもいい。例えばファンタジーもののTRPGをやっているなら、中世世界を調べて世界観の説得力を強めるなんてスタイルなんてのが真っ先に考えられる。

 とかく歴史というと生臭いシロモノになりがちである。そんなくだらないことは忘れよう。歴史はぼくらが人生を楽しむためのAPIなんだ。本書はそんな人生という言語をより素晴らしいものにする優れたレファレンスであると思う。

 ちなみに身も蓋も無いが、Amazonで購入することはオススメしない。教科書を取り扱う書店を探してそこで購入しましょう。だいたい1000円もしないで買えます。