伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

身近なもので生き延びろ(西村淳/新潮文庫)


面白南極料理人こと海上保安官にして30次及び38次南極観測隊の料理人として参加した著者のサバイバル読本。サバイバルといっても、マニアックなツールを……というよりも身近なシロモノを活用するという話なのだ。
どちらかといえば、ミリタリクラスタの自分からすれば、意外と面白く読めた。意外と言えば、北海道出身者が非常用熱源として薪ストーブを勧めていたことだ。例の原発云々に関連してか、ぼくの周りではとかく評判が悪かった薪ストーブなのだが、非常用の熱源としてはけっこう優秀なのかもしれない。そういう点ではちょっと見直した方がいいのかもね。むろん常用はしんどいだろうけども。
それよりなにより、何というか不肖・宮嶋氏との往年の歌丸・小圓遊や赤松・久米田を思い起こさせる「仲良くケンカしな」状態になんというか笑いを禁じ得ない。とりあえず、この笑いを得る為だけに本書を手に取っても損はない。

不肖・宮嶋 南極観測隊ニ同行ス(宮嶋茂樹・勝谷誠彦 構成/新潮文庫)


説明不要な「不肖・宮嶋」氏とサイバラさん曰く「ほもかっちゃん」勝谷氏による爆笑ルポルタージュ。以前ツイートした「面白南極料理人」(西村淳/新潮文庫)と時期がオーバーラップしているので併せて読むと吉。
ただ、色々と朝日だの社民党だのこき下ろしている割には、後々西村淳さんの方の本で色々disられているワケでございまして。そのあたりは少しあとがきでもexcuseされているのがオモロイ。なんと言いますか「ダブルチェック」って大事だよねってことを心の底から感じる体験をできる本であります(前提、西村さんの方を読んでいること)。そういう意味では稀有な体験ができるかと。
ある種の観客的感覚で言うならば、宮嶋さんのルポルタージュは矢張り戦場、それも爆弾がドカドカ落ちてくるようなイラクの地みたいなところで発揮される気がする。報道カメラマン、それも修羅場で切った張ったをする宮嶋さんのルポを幾つか読んでいると、極地の過酷さがぬるく見える不思議が。もっと地獄を! と思ってしまう無責任な観客になってしまうのだ。

面白南極料理人(西村淳/新潮文庫)


「読むと腹が減る」本というものが世の中にはある。料理好きであれば料理のレシピ本なんてのが典型的なものだろうし、紀行文なんかもその典型だ。というか読者を置き去りにして松葉ガニをむさぼり食うだとかもはや拷問の域に達していると思う。
この南極面白料理人も、食欲があまりない筈なのに何故か「読むと腹が減る」不思議な本の一つだ。南極の極寒の地で繰り広げられるご馳走に、もう生唾もんでございますことよ。おまけに筆者は海上保安庁所属の主計担当でレストランのシェフとかではない為、日常的な料理が日常的ではない素晴らしい食材を用いて豪快に調理される様に食欲を刺激することしきり、というわけだ。
南極の観測というと観測船の〈しらせ〉がボロくなって色々問題になってたり、搭載ヘリをどうするんだという問題があったりと、軍事クラスタ的にはネガティブな話題が多かったりするんだが、本書で描かれている南極観測の「日常」はそんなネガティブな空気を吹き飛ばすようなお気楽さと真面目さが入り混じっている。そういう意味でただの「読むと腹が減る」本とは一線を画していると云える。
あとそういえば、不肖・宮嶋氏が地味にdisられていたり。宮嶋氏も週刊文春に掲載されたルポをまとめた南極体験記を出しているが、あれに書かれている内容について現地からは色々と突っ込まれていたりする。宮嶋氏の方を読んでいる方は是非ともこちらも一読して欲しい。色々と笑いが込み上げ、腹が減ることうけあいだ。

どくとるマンボウ航海記(北杜夫/新潮文庫)


この本を最初に読んだのは忘れもしないいつだったか。確か中学一年の読書感想文だったように記憶している。 当時、読書感想文の本を買うのが面倒で実家に転がっていた本書を読んだのがきっかけであった。その当時は読みやすい本だと流し読みをしてチョチョイと感想文を書いてお茶を濁したのだが、その後牧神の午後(だったか?)でちょいとエローイ描写にコーフンしたり、著者が躁病期に書いたエッセイでゲラゲラ笑ったりと、まあありていに言えばハマってしまったわけですね。
その後、転がり落ちる石のごとく本を読みふける活字中毒者人生を歩むわけなのだが、私のそんなヨタなんざどうでもいいわけでございまして、いいかげん本題にはいりませう。
著者の航海記は1958年から1959年にかけて、と言ってみれば日本が坂の上に再び駆け上がる時代、簡単に言ってしまえば円が弱かった、そう簡単に海外へ行けなかった時代だ。当然、見るもの聞くものすべてが珍しく、その情景が……と思うとさにあらず。ユーモラスでナンセンスなと評されるが、なんてことはない、今時のTwitterやBlogで書かれているようなグダグダとした話が書き綴られている。
むろん、これはバカにした話ではなくて物凄く重要なことなのだ。その頃のブンガクってのはとにかく重苦しくて面倒くさくてとてつもなくツマンナイ、行ってみればヘンな人たちによるヘンな世界だった。それが、言わば「今様」の語り口でグダグダと述べられるってのはそれだけで重要なのであって、むしろ今の我々が書いているものが著者の影響を受けているという表現の方が至当なのだと私は思う。
そして、これが本当に重要なことなのだが、ところどころにグダグダと語られているだけじゃない教養のエッセンスがちりばめられている。この時代のインテリゲンチャがどれだけ凄いか、正直無教養なぼくには圧倒されずにはいられない。
もちろん、ちょっと頭がオジサンオバサンになってしまうと、若書きだのカルイだのツマラナイことを言ってしまうだろう。それでも、だからこそ読まねばならないんだろう。ぼくらが、本当の教養というものを背景に軽妙洒脱な日常を送るために。

旅は自由席(宮脇俊三/新潮文庫)

学生時代は無闇矢鱈と本を読んでいて、図書館で借りては読み、古書店で買い漁っては読み、新刊本を買っては読みと若干正気を疑うような読み方であった。 まあ、この乱読がいまの自分を形成していると思えば、そういう時代もあるのだろうと思うのだが。

本書はエッセイに若干の紀行が混ざった内容で、まさに「肩ひじ張らず読める本」といった趣向。とはいえ、この年この経験この乱読をしているからこそ、ハッとするものもあったりするから面白い。

例えば「白と黒の世界」という一編の中で触れられている「黒」すなわち「闇」については、岡山に赴任して初めて身近に接したもので、たぶん生まれてずっと東京に住んでいた学生時代にはあまり深く理解できないものだったに違いない。また、著者の両親、とりわけ父親とのエピソードを書いた数編も、一度親元を離れて暮らした我が身にとって何とも感じ入るところがあるものになっている。

年を重ねることで失うものが沢山あり気が滅入ること頻りではあるが、それでも年月を重ねこのように改めて新たな感慨をもつという体験に、つくづく読書という趣味をもっていることに僅かながら幸せを感じる瞬間である。筆者のように旅行することもなかなかままならないし、移動も自動車ばかりになってしまったが、それでもたまには列車に乗って旅をしたいという気分にひたらせてくれる、そんな一冊だ。