伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

神様のカルテ2(夏川草介/小学館文庫)


その昔、ナイター中継がお茶の間の団欒の中心にあった時代があった。当然というか巨人阪神戦(いや、別に巨人大洋戦でもいいが)を父親がビール片手に眺めている光景というのは、所謂「懐かしい光景」としての昭和像としてよく映し出されてきた。
いつのころからだろう。こんな風景が無くなったのは。少なくとも会社には「定時」というものがあって、残業が当たり前のような状態はそれほど無かった筈だ。
今はどうだろう。「定時」なにそれ美味しいの? 残業? 残業代なんか出ませんが、何か? そんなのが常態化している。かくいうぼくも、タイムカードと実際の残業時間がウン十時間差異があるなんてことが結構ある。それをここで云々するつもりは無いけども、いつから人は仕事というものがイコール生活となってしまったのだろうか?
本作に登場する医師たちの仕事ははっきりいって異常だ。連続三〇時間以上の勤務(当直勤含む)を当たり前のようにこなし、休日なんて殆どない生活を送っている。そんな中、当たり前のものとしてあるべき生活が崩壊した医師、重病に気づくことなく倒れ、そして死んでいく医師。明らかに常軌を逸している。
だけども、そこにはぼくらが医療というサービスに要求している異常な水準というものが存在していることを忘れてはならない。そして、この異常な水準というのは他のことにも言える。そこに人間が本来送るべき生活を放棄させるようなことが含まれていることも。
本作はあくまでもフィクションであり、人間の物語だ。だが、ここの描かれている異常さはぼくたちの日常にも敷衍すべきものが含まれている。前作に引き続き是非一読を。

神様のカルテ(夏川草介/小学館文庫)


一般文芸に対して書評を書くのは若干躊躇するものがある。ぼく自身それほどそういったものを読んでいるわけではないし、そもそも一般文芸でかなりの数を占めるミステリの類にあまり親和性が無いこともあって、そちらの知識があまりないからだ。第一、これらに対する書評なんて山のようにあることもあり、ぼくが書評する意味があまり見いだせない。
とはいうものの、本書は紹介する価値があると思って取り上げたい。
漱石かぶれの地方の基幹病院に勤務する医者の周囲で起きる出来事を切り取った物語である。これだけ取ればなんてことのない話だが、作者の文体も漱石をはじめとした明治の文豪の影響を物凄く見て取れる、漢文訓読体風の重い文体だ。重い文体というのはそれだけで今日ではデメリットになってしまう感があるが、本作はそうではない。まさに漱ぐに相応しい水のように軽妙洒脱に感じるのである。重い文体の本というだけで敬遠するのはまさに勿体ないと言わざるを得ない。
ライトノベルもそれなりに読むぼくとしては、軽い文体をそれだけでけなすつもりはさらさら無い。そもそも軽い文体というのは言文一致という明治からの国語運動の流れの一つの終着点であって、むしろ文学史的に真面目に取り扱った上で評価すべきなのだが、なかなかそうされないのが歯がゆく思うほどである。だけども、これほどまでに重たい文体の本もたまに読んでみることは非常に自分のためになることだと思う。特に漢文訓読体というのは「日本語を鍛える」という意味では極めて有効なものだと思うし、今日でしっかりとこれを使える作者というのも珍しい。
無論、物語そのものも読むべき内容だ。医者が接する患者、それも終末期の患者やある種人生を踏み外してしまった下宿屋の住人、外来のどうしょもない患者、それぞれに小説の根幹たる「人間」が描かれている。これも主人公、そして著者の漱石先生への傾倒が見て取れるほどだ。この「人間」という小説の題材をうまく扱えない「小説家」が一杯いる中で、これがどれほど稀有なことか!
ぼくが日ごろ紹介している評論とは毛色が変わったものであることは違いない。若い読者にも年寄りの読者にも万人にオススメできるものだ。知識や教養という意味では得るものは少ないかもしれないが、その前提となる「日本語」そして「人間」を見知るという意味で読むべき価値がある一冊だと断言したい。