伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

ドキュメント 戦争広告代理店(高木徹/講談社文庫)

「国際的なプレゼンスを高める目的で、日本ももっとカネを使うべきだ」という意見がある。曰く「クール・ジャパン」だとかそんなのもこういったことの一環である、などと。ある種ご説ごもっともではあるのだけども、ぼく自身は素直に頷けないところがある。
それも、本書のような事例を読んでいるからだ。
本書で扱っているのはユーゴにおけるセルビア人勢力とモズレム人勢力の争いの中で、モズレム人勢力であるシライジッチとそのバックについたルーダー・フィンというPR会社の動きである。
こういった宣伝戦というと、とかく後ろ暗いイメージが強いが本書で語られる内容は驚くほど地味なものだ。こまめに読みやすいリリースをキーマンに投げる。はっきり言ってしまえば昨今流行りの「ライフハック」でもネタにならないようなとっても地味で面倒な作業だ。
しかし、この地味で面倒な作業によってモズレム人勢力は国際的な争いのステージで勝利し現在の状況に至っている。
THE FACTなんてセンスの無い新聞広告にカネを出した連中には是非とも読んで欲しい。
その上でどういうことをすべきかを考えてみてもらいたいところだ。

アフリカ・レポート(松本仁一/岩波新書)


難しいことを簡単に、そして単純に説明するということはとても重要なことだ。難しいことを難しく説明するのは知識さえあればだれだってできる。それを単純に解きほぐし説明することが知性であり、専門家のつとめだとぼくは確信している。だが、これには物事をあまりに単純化してしまうという問題をはらんでいる。ともすれば本来複数の観点で捉えるべき問題を一面的な見方に陥ってしまうという危険性があるのだ。であるが故に、専門家はみなジレンマを抱える。難しいことを単純に解きほぐすことが出来たとしても、それは色々な前提が無ければ、ただの一面的な断罪にしかならないケースがままあるからだ。
そこで重要なのがジャーナリストという専門家だ。彼らは本来的には報道という立場で物事を伝えることが本業だ。だからこそ、優れたジャーナリストは名文家だし非常に平易で読み易いものを書くことができる(はずだ)。ぼくはあまり好きではないけども、池上彰なんかはジャーナリストとしては地味なことばっかやっているように見えて、実はすごく大事なことをやっている。
本書はそんなジャーナリストとしても一級品と言える著者のアフリカについての記事をまとめた一冊だ。ここに描かれているアフリカはそこに抱える問題を敢えて物凄く単純化して述べている。それは、アフリカの問題の根幹は、政権幹部が出身部族や取り巻きに利権をばらまくのが原因というものだ。これはある一面からすれば間違いなくそうだ。実際「現代アフリカの紛争と国家」の中でも「ポストコロニアル家産制国家」というタームを使ってこのことを肯定しているし、現実に本書で紹介しているジンバブエの事例なんかは「腐敗・オブ・ザ・腐敗」ってな感じで、ゲロの香りがぷんぷんするゾンビ状態に腐っているのは紛れもない事実ではある。
だけども、そこに単純化して「そんな腐りきった連中に任せるよりは植民地の方が幸せだ」的な理解をしてしまうのは違う。アフリカのことはアフリカの連中が決めるべきことだし、そこにヘンなそして根拠レスな人種的偏見を持つことはただのアホの所業だ。そこにある腐敗の根本を理解しないことには、何の解決にもならない。それどころか、自らのところにもこういった腐敗の根本があるのかもしれない。そしてそれがもし顕在化したのなら、歴史から学ばないものたち、愚か者としてまた歴史的に評価されてしまうことだろう。
じゃあ、どうするべきか。それはもう丹念に細かく追い続けるしかない。ぼく自身(そして著者も)カギとなるのは教育と治安だと思うのだが、それをどうすべきなのか。そしてぼくたち自身においてもどうすべきなのか。考え抜いて生きるしかない。
それはとっても苦しい道だろうし、ちっとも楽しいことじゃないだろう。安易な暴論に乗っかって騒いでいる方がよっぽど気は紛れるし、その場ではいいのかもしれない。だけども、それではただの愚か者だ。無知を悟り、学び、そして考えることこそが「愚者でなくなる」ための唯一の方法だ。本書はそれを考えるいいきっかけになる本だ。

ベトナム戦記(開高健/朝日文庫)


サントリーというと言わずと知れた洋酒メーカーだが、その一方で優秀な文人を輩出していたりする。「江分利満氏の優雅な生活」で一躍有名になった山口瞳やマカの宣伝やエッセイで名をはせた斎藤由香などである。その文人としての先駆者であるのが著者の開高健である。「裸の王様」で芥川賞を受賞したのち、様々なルポルタージュで文壇を賑わした人物だ。本書は同氏による百日にも及ぶベトナム滞在時のルポルタージュを纏めた一冊だ。
日本人にとってベトナム戦争というのは、いささか遠い出来事である。少なくとも公式には戦地で戦ったわけでもなく、せいぜい市民団体がベトナム反戦運動をやっていたくらいで、むしろ同時代の出来事としてはこれにまつわる学生運動の方がトピックスとしては挙がるくらいだ。逆にミリタリクラスタからすればベトナム戦争というのはある種「ジャンル」として消費されており、その実態だとかそういった部分について深く考察する向きは案外少数だ。
本書はそんな遠いベトナムという地を色鮮やかに活写している。戦地のルポルタージュというと、今では宮嶋茂樹さんが日本の第一人者になっている。実際にイラク戦争のルポルタージュでは、爆弾が大量に落ちてくるわ戦車の砲弾が近くの外国人プレスの部屋に落ちてきて死にそうになるなど、物凄いエピソードが書かれている。時代も違う、著者のベトナム戦争についてのルポルタージュなんて今更読む必要があるのか疑問に思う読者もいるかもしれない。
だが、違う。ここに描かれているベトナム戦争での「戦争」の姿というのは、今起きている戦争に共通する姿を持っている。それは、戦地と後方の温度差というものだ。ベトナムという戦地では毎日のように死者が出てそれが統計の数字としてしか消費されないくらいに「日常」となってしまっている。一方の後方であるアメリカでは、そもそもベトナム戦争について知らない市民が多数派だ。これを嘆くアメリカ兵の姿がとてつもなく印象的だ。
イラクやアフガンでの戦争は、アメリカという後方からはまったく切り離されたものとなり、戦地に行った将兵――そしてその家族だけが戦地という現実を受け取らざるを得ない状態となっている。この温度差というものを今読むことで肌で理解することができると思う。
以前「シビリアンの戦争」でも取り上げたけども、戦地から切り離された後方において戦争というものについてとかく無責任な態度でイケイケドンドンな態度を取るひとたちが増えている。そのツケを払わされるのは軍人やその関係者、そしてその国のひとたちだ。そして最終的には後方にも「戦費」という形で返ってくる。だけども、それに気づくのはよほど後になってからだ。事実、アメリカにおいてもこういった問題が認識されたのはブッシュ政権の末期になってからだ。そしてその後のオバマ政権が「負の遺産」の処理に苦しむという頭の痛い構図が存在する。
ぼくらが戦争というものがどういったものか認識する一つの手助けとして、本書は非常に優れたものだと思う。戦地帰りの勢い任せで読みにくい部分は多少あるけども、腰を据えて読む価値がある一冊だと思う。

日ノ丸をいつもポケットに…
ベトナムのカギ握る? 仏教徒
ベトナム人の“七つの顔”
“日本ベトナム人”と高原人
ベトコン少年、暁に死す
“ベン・キャット砦”の苦悩
姿なき狙撃者! ジャングル戦
ベトナムは日本に期待する
あとがき
解説 限りなく“事実”を求めて(日野啓三

南ア共和国の内幕 増補改訂版(伊藤正孝/中公新書)


「アパルトヘイト」ということばを知っているだろうか? 近現代史が大学入試においてあまり扱われない(扱われたとしても東西冷戦構造を中心とした歴史が中心になる)ことから、もしかすると知らない人もいるのかもしれない。南アフリカ共和国において行われてきた人種隔離政策のことだ。今の時代に勉強している若い世代にはもしかしたらピンとこないかもしれない。でも、これはれっきとした歴史的事実なのだ。山川出版の世界史B用語集には、こうある。

アパルトヘイト apartheid ⑨ 南アフリカ連邦成立時からとられた白人優位の人種差別と人種隔離政策。南アフリカ共和国に継承された。
南アフリカ共和国で、少数(16%)の白人が、大多数(84%)の非白人を支配・差別した政策。イギリス自治領時代の南アフリカ連邦で1949~50年に強化された、有色人種差別と有色人種隔離政策のこと。人口登録法・集団地域法・先住民土地法の3法が中心となっていた。国際的圧力もあって84年頃からじょじょに改善され、91年にデクラーク政権によって撤廃された。

どうだろう。50代、60代の人には比較的「同時代」の出来事かもしれないが、それ以下の年代からすると「欠落しがちな歴史的事実」だと思う。実際、この用語をものごころついてからニュースやなんかで見聞きしたのはぼくの世代が最後だと思う。ぼく自身、小学校時代通っていた学習塾のニュース解説本や新聞やニュースで「アパルトヘイトの撤廃」ということを、大騒ぎしていたことを辛うじて記憶している。
さて、本書は今からさかのぼること四十余年、1970年に朝日新聞に掲載されたルポをまとめたものにその後のアパルトヘイトの撤廃後の出来事を加えたものになる。つまり、アパルトヘイト体制下のころの話が中心だ。このころの南アフリカは体制維持の為に人種差別問題を取り上げるような報道を厳しく制限していた。であるが故に著者と相棒のカメラマン横田紀一郎氏は文字通り命がけの取材をすることになる。そしてその課程で寛恕し難い差別にも出会う。今から考えれば信じ難いが、歴史的な事実としてあった話だ。そして、さらに信じられないことに、著者はアパルトヘイトの撤廃が行われるまである種の「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として南アフリカへの入国を拒否され続けてきた。
本書の中身については、敢えて深くは触れないでおく。何故ならアパルトヘイトについて知らないひとたちこそ、まっさらな状態でこのルポを読んで欲しいからだ。おそらく、書いてある内容に憤りを感じもするだろうし、昔はしょうがなかったんだというある種のエクスキューズ的な立場を取る人もいるだろう。ぼくはそれを否定するつもりはない。それぞれの受け取り方次第だと思う。所詮「アカイアサヒ」とバカにするような態度を取ったって別に構わない。それは、読み手の感性の問題だからだ。
ただ、ここに書かれている事実や著者の問題意識というものは歴史の一つとして絶対に知っておくべきことだと、ぼくは思う。今から思えば本当にくだらない、人種という根拠レスなシロモノによって、かくも無駄な労力とコストを支払い、それにより大多数のひとたちが抑圧されたということは、忘れてはならない事実だからだ。
ぼく自身は彼がとりあげた差別についての問題意識は現代において日本でも通用する話だと思っている。それは単に人種差別という問題にとどまらず、著者の云うような「元請と下請」「(経済的格差による)学歴格差」というような問題は一つの差別の構造として横たわっているからだ。
感性がすり減った(もしくは感性を磨く気のない)年寄りどもに薦める気はさらさらないが、瑞々しい感性を持った若い世代には是非とも読んで欲しい。

増補改訂版まえがき
再版まえがき

Ⅰ 黄色人種として
Ⅱ 現代の魔女狩
Ⅲ 暗闇のソウェト
Ⅳ 飢えるトランスカイ
Ⅴ 白より白く
Ⅵ 解放への道
Ⅶ 二十年ののち
参考文献
南アフリカ年表
索引

不肖・宮嶋 南極観測隊ニ同行ス(宮嶋茂樹・勝谷誠彦 構成/新潮文庫)


説明不要な「不肖・宮嶋」氏とサイバラさん曰く「ほもかっちゃん」勝谷氏による爆笑ルポルタージュ。以前ツイートした「面白南極料理人」(西村淳/新潮文庫)と時期がオーバーラップしているので併せて読むと吉。
ただ、色々と朝日だの社民党だのこき下ろしている割には、後々西村淳さんの方の本で色々disられているワケでございまして。そのあたりは少しあとがきでもexcuseされているのがオモロイ。なんと言いますか「ダブルチェック」って大事だよねってことを心の底から感じる体験をできる本であります(前提、西村さんの方を読んでいること)。そういう意味では稀有な体験ができるかと。
ある種の観客的感覚で言うならば、宮嶋さんのルポルタージュは矢張り戦場、それも爆弾がドカドカ落ちてくるようなイラクの地みたいなところで発揮される気がする。報道カメラマン、それも修羅場で切った張ったをする宮嶋さんのルポを幾つか読んでいると、極地の過酷さがぬるく見える不思議が。もっと地獄を! と思ってしまう無責任な観客になってしまうのだ。