伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

今日のはてブ(2015/01/06)

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昔から貧乏暇なしとはよく言ったもので、新年早々エラい時間に帰るハメになってしまいました。
CES周りで書きたいネタはいっぱいあるんですが、申し訳ありませんが明日に回すことにして今日は超短縮版でいきます。

行けば楽しいが.......

http://arfaetha.jp/ycaster/diary/post_2577.html
[ユーロ][為替][ヨーロッパ][ギリシャ][EU][ECB][金融政策]ユーロについては本当に色々とよくわかんない状況になってて、当事者であれば大変でしょうなあ、と若干の他人事感を持ちながら眺める今日このごろです。

(追記)「ヨーロッパの低迷」って話はいろんなところ(それこそ大企業の年賀式の枕詞に今年はなってた感ががが)で語られているわけなんですが、一方でリトアニアがユーロ導入なんて動きもあったりします。


リトアニアがユーロ導入 - 化学業界の話題

むろん、これそのものが「ヨーロッパの復活」なんてことが言えるほどインパクトのある出来事では無いにせよ、少なくとも今日明日で色々とぶっ壊れるほどガタガタになっているというわけではないんですよね。EU内でのうらみつらみはあるけども、それをブチ壊すほどのヤバさも無い。

ギリシャがユーロ離脱ってなったところで、それが蟻の一穴になるかと言われればさすがに無いと答えざるを得ないわけです。所詮その程度の規模だしおそらくは事前に織り込まれて最後にはインパクトが薄まる方向になろうかと思う次第。

一方で為替に関して当事者となる人たちに関して言えば、本当にご愁傷様としか。この荒れまくる相場で社内レートを維持するとか考えたくもないです。ましてや為替ベースでの横持ちが3ヶ月とか半年とか長いスパンになるような性質の業種なんかは気の毒になりますよ。いくら為替予約や長期契約で均せるとはいえ、クォーターとかで実績を見られるようなケースも腐るほどあるわけですし。

砂の薔薇(新谷かおる/白泉社文庫)

   
   
PMC(Private Military Company)というものがある。簡単に言ってしまえば傭兵とかの派遣会社のようなものだ。ずいぶんと昔からこれに類するものが存在していたが、最近イラク戦争とかの関係で注目されるようになってきた。もちろんこの注目は基本的にはネガティブな文脈で語られることが多いのだが、現実的に自国軍で手が回らないところが多い昨今(とくに歩兵戦力は政治的理由もあってなかなかフルには難しい)必要悪のようなところはある。
本作はそんなPMC――CATに所属する美しい女性たちのテロとの戦いの物語だ。空港爆破テロで夫と子供を失った主人公、真理子・ローズバンクを指揮官とした傭兵部隊がテロをぶっ潰して回るという筋書きである。
あくまでもフィクションであるという前提が必要ではあるが、PMCというものに着眼した著者の発想には瞠目せざるを得ない。何しろ本作は1990年代初頭に書かれたものなのだ。まだまだPMCというものが一般的には未知なるものだった時代に、ここまで精緻に物語をくみ上げるとは、いやはや驚きである。
さて、対テロを主任務とするPMCを舞台にしている以上、それについて考えなければならない。彼女たちはテロを憎む。それは、政治的要求を通すために罪のない一般市民、とりわけ子どもたちが犠牲になるということが許せない、と物語では述べられている。なるほど、PMCというものが持つ影の部分にあまり言及せず主人公たちをある種の「正義の味方」とするには巧い筋書きである。
無論、テロ行為というのは非常に嫌らしい「犯罪」である。実際、つい最近のボストンマラソンでのテロでは、子どもが犠牲になるなどしたし一般市民も巻き込まれたと聞く。だいたい、ふつうのこういったイベントでドンパチやられた日にはたまったものじゃない。はっきり言って迷惑極まりない。若干下品かつ冒涜的な比喩をお許し願うならば、バキュームカーを歩行者天国に持ち込んでうんこをまき散らす以上に迷惑な行為だ。爆弾テロなんかやられた日にはうんこが臭いとか言ってる場合じゃないわけだし。
ただ、本作を読んでいるとどうしても対テロという立場からの独善を感じざるを得ない。実際、テロという手段を用いねば政治的主張そのものが無視されている立場のひとたちはどうするんだ? という疑問が浮かんでくる。例えばパレスティナにおけるイスラム過激派なんかもその一つである。松本仁一さんの「ユダヤ人とパレスチナ人」にもある通り、現実的にイスラエルによって「圧政」を敷かれているパレスチナ人はその現実を受け入れるしかないというんだろうか? そりゃ、テロという行為がタチの悪い「犯罪」であることは言うまでもない事実だ。だけども、それをしなきゃやってられないというもう一つの事実はどうなるんだろう。実際本作でそういった複雑な事情を抱えた地域での物語は一切ない。実際、著者も書ききれないだろうし、物語としても非常に重苦しい、エンタテイメントとしてはつまらないものになってしまうからだろう。それは仕方がない。だけども、そういった批判的パースペクティブをどうしても私は持ってしまうのだ。
エンタテイメントとしては(連載が青年誌だったということもあり、多少エロティックな描写が多いのは事実だけども)一級品で、純粋に楽しめる作品ではある。ただ、これを読んだときに多少なりともこういった別のパースペクティブを持てるだけの多様性と教養は持ち合わせて欲しいとぼくは思う。

学問と「世間」(阿部謹也/岩波新書)


「学問」が不当に扱われる世の中である。いきなり何を言うのかと思うかもしれないが、実際問題として大学で学問を修めるにあたり実質的には3年余りしか時間が与えられない(いわゆる「シューカツ」というやつのせいだ)状況は「学問」をなおざりにしていると言っても過言ではない。個人名は挙げないが「大学での「学問」は社会に出てからは関係ない」式のことを言い漏らす経営者がいるような時点で、色々お察しというようなものである。
でも、実際「学問」ってそんなに不必要なものなんだろうか? それでは大学というものが何故存在するのだろうか? それこそ、かつての毛沢東やポル=ポトのように、インテリゲンチャをみんな下放して原始共産制のようにしてしまった方がいいのではなかろうか? この疑問に対しまともに答えを持つものは、多分居ないが居るだろう。この矛盾した答えの謎は極めて単純なものである。本音の部分としては「学問」なぞ余裕のある話だ、そんなことをする前に働けというものだ。そして建前としては、西欧にならって国家制度を成り立たせてきた日本という国において「学問」をおろそかにすることはできない。この本音と建前の矛盾こそが、このように「学問」が不当に扱われるようになった遠因ではないだろうか。余談だが、そういった意味では先述の財界人の発言は二重の意味で失言と云える。一つはもちろん学問というものを軽んじた、あまりに迂闊で知性の無い発言であること、そしてもう一つは、経営者というある種建前の世界に生きる人が公の場で本音を漏らしたということである。むろん、この経営者が表だって咎める者は居ないだろうが、知性の欠如した人物であることは否定できないだろう。
さて、本書はこの本音と建前を形成する「世間」と学問について、欧州の〈生活世界〉と学問との関係性と比較しながら論じた一冊だ。本論としてはそこから「生涯学習」についても述べられているが、そこにあまり価値は無い。むしろ「世間」というものと欧州の〈生活世界〉との比較――そしてそれらとの学問の関係性が中心に述べられており、そこに著者の専門である欧州中世の社会史のパースペクティブが効いている。
本書は新書で、比較的平易かつ手軽な本であるがそこで述べられている内容は決して「新書的」なものではない。どちらかといえば、もっと本質的な――いわば学問的な内容である。万人が読んで何か良いものを手に入れられるかと言われれば、それはNoだ。おそらく世の中の大部分の人が本書を読んでも小難しいことを書いているだけと思うだろう。
ただ、ここで述べられている世間というものと学問の関係性は決して古びるものではないし、教養として持っていることはとても大事なことだと思う。特に、日本人が「学問」として認識しているものが〈生活世界〉に対して本来は延長線上にあるということ、そして知ったかぶっていることを真に考えるということの重要性は、こと今日ウェブという空間で飛び交う空虚な言葉を切り払うためにも重要だ。
個人的には同志社大の三輪教授のエピソードが、明星大の関教授の調査手法と重なり非常に印象的であった。このエピソードを読んだだけでも本書を読んだ価値はあったと思っているし(若干口はばったいけども)世の中に紹介するに値する一冊だと確信している。

まえがき

第一章 日本と西欧における人文科学の形成――世間と個人――
 第一節 日本の人文社会科学者たちはどのようにして養成されてきたか
 第二節 西欧における個人の起源と人文諸科学の展開

第二章 日本の学問の現在
 第一節 日本の学問の形と教養概念
 第二節 人文諸科学は他の学問とどのような関係をもっているか
 第三節 大学や大学院でもは何が行われているか
 第四節 研究と教育はどのようにして支えられているか

第三章 フッサールの学問論と日本の「世間」――〈生活世界〉の発見――
 第一節 フッサール現象学における〈生活世界〉とは何か
 第二節 〈生活世界〉の刑法学
 第三節 〈生活世界〉としての「世間」

第四章 日本の学問の課題――〈生活世界〉の探求――
 第一節 家政学の現在
 第二節 〈生活世界〉の中の教養
 第三節 合理的な近代化のシステムと歴史的・伝統的システム(「世間」)の狭間で
 第四節 学問の再編成に向けて――大学の役割

あとがき
参考文献

ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界(阿部謹也/ちくま文庫)


阿部謹也さんというと、ぼくからするととても微妙な思いを抱えた先生だ。正直なところを言えば早くて中学生、ふつう高校生、遅くても大学生までには「読んでいるべき」であって、三十路を手前にして今更読み始めるということの恥ずかしさというのがどうしてもある。その一方で、ぼくの知っている若い世代に一刻も早く紹介したいし、その知のエッセンスというもの、そしてその面白さや楽しさというものを教えてあげたいという思いも同時にある。さらに言えば、ぼく自身歴史というものがとても好きだしその中で阿部さんの築き上げてきたものは自分の中に得たいものだ、という知的好奇心もある。
そういった複雑な心境の中で読んだ感想というのを前提にぼくの書評を読んでほしい。
多くの「おとぎ話」(敢えて本書の表現から外れたこの書き方をする)には下敷きになる(事実というには曖昧模糊とした)出来事が存在する。また、同時に当時の時代を反映した背景もまた存在する。
ハーメルンの笛吹き男」。読者諸賢も小さいときに「おとぎ話」として見聞きしていることだろう。実際、ぼくも幼稚園のときに学芸会でやらされたもんだ(そこでとちって、会場大爆笑というすべったんだかすべってないんだかわからない経験をしたのだが、それはさておく)。だが、この話はただの「おとぎ話」ではないと著者は言う。本書でも記述されている通り、1284年6月26日に当時のハーメルン市の規模から言えば相当規模の失踪者が出たという史実が存在する。そしてかつて様々なひとたち(そこにはライプニッツというビッグネームも存在する)によって興味深いミステリーとして、研究の対象になった。本書はこの「ハーメルンの笛吹き男」というミステリーに対してかなり明確かつ明瞭な解答編となるものである。
敢えてここではその解答編の内容については言及しない。ミステリーのネタバレというのは避けるというのが著者への礼儀というものだろう。だが、先に述べた「おとぎ話」の下敷きとなる出来事、そして時代背景というものが次第に明確になっていくのは、まさに名探偵が謎を解き明かす瞬間のような快感を与えてくれると思う。
そして、本書を読み進めるにあたって歴史というものが無味乾燥な単純暗記ではなくて、豊饒な乳と蜜の流れる地そのものということを悟るに違いない。若い世代が「勉強」させられている「歴史」はあくまでも通史という「幹」の部分であり、そこからきわめて豊かな枝葉、そして花や果実が実っているのである。だからこそ「幹」をしっかりとさせるという意味で「歴史」の「勉強」は大事なのだ。とはいえ、そればかりではつまらないというのも事実。そういう意味では本書のような豊饒な果実をたまには齧ってみるというのも必要かもしれない。
そういった意味では是非とも若い世代、それも大学に入る前の少年少女たちに読んでほしい本だ。確かに簡単に読み進められるような本ではない。内容としては大学生や大学院生に向けて書かれた、かなりレベルの高い本であることは間違いない。ただ、これを一冊通読した上で再び「歴史」の「勉強」に向かったとき、日ごろ学んでいるものの重要性や面白さが理解できるようになるだろう。

〇第一部 笛吹き男伝説の成立
 はじめに
 第一章 笛吹き男伝説の原型
  グリムのドイツ伝説集/鼠捕り男のモチーフの出現/最古の史料を求めて/失踪した日付、人数、場所
 第二章 一二八四年六月二六日の出来事
  さまざまな解釈をこえて/リューネブルク手書本の信憑性/ハーメルン市の成立事情/ハーメルン市内の散策/ゼデミューンデの戦とある伝説解釈/「都市の空気は自由にする」か/ハーメルンの住民たち/解放と自治の実情
 第三章 植民者の希望と現実
  東ドイツ植民者の心情/失踪を目撃したリューデ氏の母/植民請負人と集団結婚の背景/子供たちは何処へ行ったのか?/ヴァン理論の欠陥と魅力/ドバーティンの植民遭難説
 第四章 経済繁栄の蔭で
  中世都市の下層民/賤民=名誉をもたない者たち/寡婦と子供たちの受難/子供の十字軍・舞踏行進・練り歩き(プロセッション)/四旬節とヨハネ祭/ヴォエラー説にみる〈笛吹き男〉
 第五章 遍歴芸人たちの社会的地位
  放浪者の中の遍歴楽師/差別する側の怯え/「名誉を回復した」楽師たち/漂泊の楽師たち

〇第二部 笛吹き男伝説の変貌
 第一章 笛吹き男伝説から鼠捕り男伝説へ
  飢饉と疫病=不幸な記憶/『ツァイトロースの日記』/権威づけられる伝説/〈笛吹き男〉から〈鼠捕り男〉へ/類似した鼠捕り男の伝説/鼠虫害駆除対策/両伝説結合の条件と拝啓/伝説に振廻されたハーメルン
 第二章 近代的伝説研究の除雪
  伝説の普及と「研究」/ライプニッツ啓蒙思想/ローマン主義の解釈とその功罪
 第三章 現代に生きる伝説の貌
  シンボルとしての〈笛吹き男〉/伝説の中を生きる老学者/シュパヌートとヴァンの出会い
 あとがき
 解説 泉のような明晰(石牟礼道子
 参考文献

すべての経済はバブルに通じる(小幡績/光文社新書)


個人投資家としても有名な慶應大学准教授である著者による、近年発生している「バブル」についてそのメカニズムを分析した一冊。実務者寄りというよりかはかなり理論的な本で、ちょっと内容は難しめだ。それでも新書として出ている本だし、それほど人を選ぶレベルではない。
「資本(投資家)と頭脳(運用者)の分離」という着目点は結構目からウロコで、確かに殆どの大口投資家がファンドに出資することで運用を行っている現状からすると、極めて重要な示唆だ。また、そこからバブルが発生するメカニズム(運用者は資金を引き上げられたくないから、リスキーな相場に突っ込まざるを得ない、よってバブルが加速する)もなかなか興味深い。それどころか、この枠組み自体がそれ自体一つのバブルを形成している(著者はこれを「キャンサーキャピタリズム」と呼んでいる)というあたりは、納得せざるを得ない内容だ。
本書では、このキャンサーキャピタリズムバブルも様々な要因によって(その内容は本書を読んで確かめてみて)弾け、この病的な状態を脱すると論じているが、ぼくはそこまで楽観的にはなれない。歴史は繰り返すというけども、恐らく手を替え品を替え相当長い期間同じようなことをやって、実体経済を振り回すことになるんだろう。なぜなら、本書でいう「資本と頭脳の分離」の枠組みが変わらない限り、頭脳すなわち運用者はちょっとでも高いリターンを求めてリスクを取りに行き、そしてバブルが形成されていくから。そしてこの枠組みはそう簡単に崩れることはないだろう。現実的に投資家が抱える資本が偏在する(これは金持ち批判じゃなくて、年金基金なんかも含めた話だ)以上、その資本を自分で運用することは現実的には難しいし、メリットも薄いから。より効率的にってことになると、どうしたって「プロ」をチョイスして成績を追っかける方がラクだからだ。
とまあ、ちょっと暗い話になってしまったけども、バブルに釈然としない向きには、理論を知ることで多少なりとも納得して、バブルに振り回されない為にはどうすべきか知って、より面白おかしく生きていこうじゃないか。ぼくはそう思う。