伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

続・オーケストラは素敵だ オーボエ吹きの修行帖(茂木大輔/音楽之友社)


N響首席オーボエ奏者によるエッセイ。以前紹介した前作の続編だ。あとがきに「山下洋輔」の名前が出ているように、所謂「昭和軽薄体」の雰囲気に満ちていて、とっても楽しいエッセイ。
各楽器についての解説的な内容が多かった前作よりも「楽隊」の裏話的な話や著者のドイツでのオーディション話がある本作の方が私は好み。ただ、そのせいもあって音楽に詳しくない人にとっては若干とっつきにくいかもしれない。
また、本作の内容は二冊に分冊されて中公文庫に再録されている。そちらを手に取ってみてもよいかと思う。

オーケストラは素敵だ オーボエ吹きの楽隊帖(茂木大輔/音楽之友社)


N響首席オーボエ奏者の著者によるオーケストラをテーマにしたエッセイ。クラシックをあまり知らなくても楽しめるし、知っていればなおのこと楽しめる、肩の力を抜いた気楽に読める一冊だ。
読んでいて一番「あー」と思ったのが、弦楽器と管楽器の価格格差の話。 弦楽器の場合、それこそ家一軒買える値段なのに対して管楽器の値段は(トッププロが使うものでも)結構たかが知れていたりする。弦楽器の場合、最高峰にストラディヴァリウスというものがあってこれが物凄くシャレにならない値段だったりする上、現代技術では再現できなかったりするあたり相場が青天井で大変なのだ。一方管楽器はというと、高いと言っても楽器の素材を金にする(音の響き的にそっちの方がよかったりするので)といった程度で、さらに言えば楽器の機能的に「最新の機種の方が良い」なんてこともあるのだ。そんなわけで、弦楽器セクションの贅沢さと比較すると管楽器は安上がりというくだりは思わず苦笑いを禁じ得なかったりする。なんというか「あ、あー」という言葉以外にこの感情を言い表すのが難しい。
もう一つ印象深いエピソードを。若いころ著者の奥さんと著者が音楽観を巡ってケンカになる話があるのだが、その中で「ひとつの様式」に「どっぷりひた」ることの大切さを語っているものがある。これは音楽に限った話じゃなくて、何にしてもそうだと思う。そういった「ひとつの様式」に「どっぷりひた」った後は、他の様式の意味も自然と見えてきて理解がしやすくなることは経験上かなりあったりする。
最近は知識や薀蓄ということをとかく軽視する世の中になってきて、とても苦々しく思っている。何かしらの分野で知識の大河にひたることをしないまま、聞きかじりの理屈を振りかざす連中が多いというわけだ
それをとやかく言うつもりは無いのだが、底の浅い人間を量産するようではこの先暗いよな、などと柄にもなく気楽なエッセイを読みながら思ってしまった次第。

どくとるマンボウ航海記(北杜夫/新潮文庫)


この本を最初に読んだのは忘れもしないいつだったか。確か中学一年の読書感想文だったように記憶している。 当時、読書感想文の本を買うのが面倒で実家に転がっていた本書を読んだのがきっかけであった。その当時は読みやすい本だと流し読みをしてチョチョイと感想文を書いてお茶を濁したのだが、その後牧神の午後(だったか?)でちょいとエローイ描写にコーフンしたり、著者が躁病期に書いたエッセイでゲラゲラ笑ったりと、まあありていに言えばハマってしまったわけですね。
その後、転がり落ちる石のごとく本を読みふける活字中毒者人生を歩むわけなのだが、私のそんなヨタなんざどうでもいいわけでございまして、いいかげん本題にはいりませう。
著者の航海記は1958年から1959年にかけて、と言ってみれば日本が坂の上に再び駆け上がる時代、簡単に言ってしまえば円が弱かった、そう簡単に海外へ行けなかった時代だ。当然、見るもの聞くものすべてが珍しく、その情景が……と思うとさにあらず。ユーモラスでナンセンスなと評されるが、なんてことはない、今時のTwitterやBlogで書かれているようなグダグダとした話が書き綴られている。
むろん、これはバカにした話ではなくて物凄く重要なことなのだ。その頃のブンガクってのはとにかく重苦しくて面倒くさくてとてつもなくツマンナイ、行ってみればヘンな人たちによるヘンな世界だった。それが、言わば「今様」の語り口でグダグダと述べられるってのはそれだけで重要なのであって、むしろ今の我々が書いているものが著者の影響を受けているという表現の方が至当なのだと私は思う。
そして、これが本当に重要なことなのだが、ところどころにグダグダと語られているだけじゃない教養のエッセンスがちりばめられている。この時代のインテリゲンチャがどれだけ凄いか、正直無教養なぼくには圧倒されずにはいられない。
もちろん、ちょっと頭がオジサンオバサンになってしまうと、若書きだのカルイだのツマラナイことを言ってしまうだろう。それでも、だからこそ読まねばならないんだろう。ぼくらが、本当の教養というものを背景に軽妙洒脱な日常を送るために。

旅は自由席(宮脇俊三/新潮文庫)

学生時代は無闇矢鱈と本を読んでいて、図書館で借りては読み、古書店で買い漁っては読み、新刊本を買っては読みと若干正気を疑うような読み方であった。 まあ、この乱読がいまの自分を形成していると思えば、そういう時代もあるのだろうと思うのだが。

本書はエッセイに若干の紀行が混ざった内容で、まさに「肩ひじ張らず読める本」といった趣向。とはいえ、この年この経験この乱読をしているからこそ、ハッとするものもあったりするから面白い。

例えば「白と黒の世界」という一編の中で触れられている「黒」すなわち「闇」については、岡山に赴任して初めて身近に接したもので、たぶん生まれてずっと東京に住んでいた学生時代にはあまり深く理解できないものだったに違いない。また、著者の両親、とりわけ父親とのエピソードを書いた数編も、一度親元を離れて暮らした我が身にとって何とも感じ入るところがあるものになっている。

年を重ねることで失うものが沢山あり気が滅入ること頻りではあるが、それでも年月を重ねこのように改めて新たな感慨をもつという体験に、つくづく読書という趣味をもっていることに僅かながら幸せを感じる瞬間である。筆者のように旅行することもなかなかままならないし、移動も自動車ばかりになってしまったが、それでもたまには列車に乗って旅をしたいという気分にひたらせてくれる、そんな一冊だ。