伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

アフリカ・レポート(松本仁一/岩波新書)


難しいことを簡単に、そして単純に説明するということはとても重要なことだ。難しいことを難しく説明するのは知識さえあればだれだってできる。それを単純に解きほぐし説明することが知性であり、専門家のつとめだとぼくは確信している。だが、これには物事をあまりに単純化してしまうという問題をはらんでいる。ともすれば本来複数の観点で捉えるべき問題を一面的な見方に陥ってしまうという危険性があるのだ。であるが故に、専門家はみなジレンマを抱える。難しいことを単純に解きほぐすことが出来たとしても、それは色々な前提が無ければ、ただの一面的な断罪にしかならないケースがままあるからだ。
そこで重要なのがジャーナリストという専門家だ。彼らは本来的には報道という立場で物事を伝えることが本業だ。だからこそ、優れたジャーナリストは名文家だし非常に平易で読み易いものを書くことができる(はずだ)。ぼくはあまり好きではないけども、池上彰なんかはジャーナリストとしては地味なことばっかやっているように見えて、実はすごく大事なことをやっている。
本書はそんなジャーナリストとしても一級品と言える著者のアフリカについての記事をまとめた一冊だ。ここに描かれているアフリカはそこに抱える問題を敢えて物凄く単純化して述べている。それは、アフリカの問題の根幹は、政権幹部が出身部族や取り巻きに利権をばらまくのが原因というものだ。これはある一面からすれば間違いなくそうだ。実際「現代アフリカの紛争と国家」の中でも「ポストコロニアル家産制国家」というタームを使ってこのことを肯定しているし、現実に本書で紹介しているジンバブエの事例なんかは「腐敗・オブ・ザ・腐敗」ってな感じで、ゲロの香りがぷんぷんするゾンビ状態に腐っているのは紛れもない事実ではある。
だけども、そこに単純化して「そんな腐りきった連中に任せるよりは植民地の方が幸せだ」的な理解をしてしまうのは違う。アフリカのことはアフリカの連中が決めるべきことだし、そこにヘンなそして根拠レスな人種的偏見を持つことはただのアホの所業だ。そこにある腐敗の根本を理解しないことには、何の解決にもならない。それどころか、自らのところにもこういった腐敗の根本があるのかもしれない。そしてそれがもし顕在化したのなら、歴史から学ばないものたち、愚か者としてまた歴史的に評価されてしまうことだろう。
じゃあ、どうするべきか。それはもう丹念に細かく追い続けるしかない。ぼく自身(そして著者も)カギとなるのは教育と治安だと思うのだが、それをどうすべきなのか。そしてぼくたち自身においてもどうすべきなのか。考え抜いて生きるしかない。
それはとっても苦しい道だろうし、ちっとも楽しいことじゃないだろう。安易な暴論に乗っかって騒いでいる方がよっぽど気は紛れるし、その場ではいいのかもしれない。だけども、それではただの愚か者だ。無知を悟り、学び、そして考えることこそが「愚者でなくなる」ための唯一の方法だ。本書はそれを考えるいいきっかけになる本だ。

現代アフリカの紛争と国家(武内進一/明石書店)


アフリカの紛争というとどういったものを想像するだろうか? たとえばルワンダのジェノサイドもその一つだし、最近起きた(起きている)イスラム過激派のテロリズムもその一つと言える。もっと細かいものを取り上げるとキリが無いほどだ。
ぼくの持つイメージというのは資源の権益(石油だとかダイヤモンドだとかだ)を巡って主流派と反主流派がドンパチやっている内戦のイメージが非常に強い。これは松本仁一カラシニコフで読んだ「失敗国家」の記述が非常に強烈で今でもその印象に囚われているからだと自己分析している。実際、アフリカの権力闘争のイメージというのは、角福戦争を武器を使ってやっているような、そんなプリミティブなものと思っている向きも多いかと思う。
だが、本書はそのイメージは時代遅れな考えだと一刀両断している。実の所そういった紛争はむしろ1960年代から1980年代には主流だったが、それ以降、とりわけ1990年に入ってからの紛争は少し違ったものなのではないか? という指摘をしている。本書ではそれをポストコロニアル家産制国家とそれの解体による紛争という言葉を使って説明している。これを簡単に言ってしまえば、権力者とその取り巻きが一切合財を握っている体制のことで、植民地後だから「ポストコロニアル」というくらいの意味である。この体制が1960年代から1980年代に続き、それが1990年代に入って解体され始めたことで今のアフリカにおける紛争激化が起きたのだと筆者は指摘する。
アフリカという国はこの書評でも関連する書籍の書評で何度も指摘しているが、日本とはあまりに縁遠いこともあって、とかく一面的な見方をしてしまう傾向がある。かくいうぼくも、ポストコロニアル家産制国家的な見方を未だにしてしまっていたことからもよくわかると思う。だからこそ丹念な統計的分析とヒアリング資料の分析を用いることで、その迷妄を分析してくれた本書は、極めて啓蒙的で優れた分析だとぼくは思う。
ケチをつけることは幾らでもできると思う。特にイスラム原理主義との関連(特に北アフリカ諸国における)についての言及があまり無い点も不満だし、実際に従来的な紛争とは一線を画したものなのか? という点についても若干食い足りないところがある。ルワンダのケース分析が中心になっているので、このケースだけでアフリカ全土の紛争を説明しようというのは若干無理があるようにも思う。だが、アフリカという物凄く大雑把な括りの中の一つの見方として本書の指摘は極めて有意義だ。
一般向けの読み易い本ではなくガチガチの専門書だし、広くオススメするにはちょっと厳しい本であることは間違いない。だが、それでも見聞を広めたい若いひとたちには是非ともトライして欲しい一冊であることには間違いない。読了することで、アフリカについて新たなパースペクティブを得られること間違いなしだ。

図表リスト
凡例
地図〈アフリカの国家〉

序 問題の所在と方法

第Ⅰ部 1990年代アフリカの紛争をどう捉えるか
第一章 1990年代アフリカの紛争
 はじめに
 第1節 発生頻度と類型化
 第2節 紛争の新たな特徴
 第3節 先行研究の視角
 まとめ

第2章 ポストコロニアル家産制国家(PCPS)の解体としての紛争
 はじめに
 第1節 独立後のアフリカにおける国家の特質
 第2節 ポストコロニアル家産制国家(PCPS)
 第3節 特質の由来
 第4節 PCPS解体の契機
 第5節 PCPSの解体と新たな紛争の特質
 第6節 植民地秩序とポストコロニアル秩序
 第7節 ルワンダという事例
 第8節 議論の進め方
 まとめ

第Ⅱ部 植民地統治の衝撃
第3章 植民地化以前のエスニシティと統治
 はじめに
 第1節 エスニシティの起源
 第2節 統治体制とエスニシティ
 まとめ

第4章 植民地化とルワンダ国家
 はじめに
 第1節 植民地ルワンダの領域的形成
 第2節 植民地経営の改革
 第3節 植民地経営の理念と現実

第5章 植民地期の社会変容
 はじめに
 第1節 社会的不平等と社会秩序
 第2節 土地制度の変容
 まとめ〈第4章・第5章〉

第6章 「社会革命」
 はじめに
 第1節 信託統治地域の政治制度改革(1956年まで)
 第2節 万聖節の騒乱
 第3節 国際社会の介入
 第4節 農村社会にとっての「社会革命」
 まとめ

第Ⅲ部 ポストコロニアル家産制国家(PCPS)の成立と解体
第7章 カイバンダ政権期の国家と社会
 はじめに
 第1節 政治体制の制度的性格
 第2節 政治制度の実態
 第3節 ローカルな権力と農村社会
 第4節 「イニェンジ」侵攻とその影響
 第5節 対外関係
 まとめ

第8章 ハビャリマナ政権の成立と統治構造
 はじめに
 第1節 クーデター
 第2節 ハビャリマナ体制の骨格
 第3節 インフォーマルな権力中枢
 まとめ

第9章 混乱の時代
 はじめに
 第1節 経済危機
 第2節 内戦勃発
 第3節 政治的自由化と急進勢力の膨張
 まとめ

第10章 ルワンダ・ジェノサイドに関する先行研究
 はじめに
 第1節 積年の「部族対立」
 第2節 経済的要因、農村社会経済構造
 第3節 人種主義と利得
 第4節 全体主義的動員
 第5節 フトゥ集団内の圧力

第11章 ジェノサイドの展開
 第1節 ハビャリマナ大統領搭乗機撃墜事件
 第2節 新政権の発足
 第3節 ジェノサイドの主体
 第4節 地方におけるジェノサイドの展開過程
 まとめ

結論 アフリカの紛争と国家
 第1節 〈第Ⅱ部〉〈第Ⅲ部〉の要点と主張
 第2節 含意
 第3節 PCPSの移行

写真構成:ルワンダの人びとと風景

補論1 聞き取り調査について
補論2 ジェノサイドに関する主要人名録

あとがきと謝辞
引用文献
索引

ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版(服部正也/中公新書)


物語というものにはいくつかの定型――テンプレート的なものがある。その中でも、ボロボロになった組織を立て直しハッピーエンドというものは色んな媒体で書かれている。一般的な中間小説もそうだし、オジサン向けの企業小説はおろかライトノベルでも(若干アレンジはされているけど)扱われている。
本書は名著として知られている一冊だ。だが、単純にそういった先入観で読むよりもむしろこういった「物語」の一つとして読む方が楽しめる。
本書で描かれているルワンダは、独立後の混乱からシッチャカメッチャカの状態だった。旧宗主国のベルギー人はタチ悪く振る舞い、ルワンダ人に偏見の目を向けながら暴利をむさぼる。政府の保有する外貨は底を尽き、中央銀行は業務をよく知らない連中ばっかり。挙句の果てに「主人公」である著者が赴任するときに援助の対価として通貨の切り下げまでIMFに要求される始末。ありていに言ってしまえばどん底の状態だ。
そんなどん底から「主人公」がどのように戦っていくのかは本書を是非読んでほしい。扱われている内容は中央銀行の業務を越えて、一国の経済を立て直す方策まで含まれており極めて小説的に楽しめる。内容もとても平易なものだ。「中央銀行のあるべき姿」という所について本書を通じて論考している向きもあるが、もちろんそれは否定しない。だけど一人の「主人公」が組織を立て直していくという「物語」としてとらえても十分に楽しめるものになっているとぼくは思う。
さて、この物語であるが決してハッピーエンドにはなっていない。皆様もご存じの通り、ルワンダにおける民族対立によって民族虐殺――ジェノサイドが行われ悲惨な状況に陥ったのだ。事実、本書の増補として著者本人によるこの紛争についての論考が載っており、本来「ハッピーエンド」で終わるはずの物語が苦いものになってしまった悲しみに満ち溢れていると言える。
だが、国というものは決して単なる物語によるものではなく、延々と続く現実の延長線上に存在する。そういった意味では、この苦い出来事も一つの現実であり受け入れなければならない。逆に言えば、この民族虐殺の出来事という点を延々と引きずることで塗炭の苦しみを続けるようなことがあってはならないのである。
ルワンダの紛争についてかつて宮嶋茂樹さんがルポルタージュしているのだが、彼はその中でルワンダについてボロクソに書いている。確かに当時のルワンダの現状の一つではあるのだろう。実際に現地で取材した人物の書いていることは、それはそれで一つの事実ではある。しかし、そこにある種の偏見が混じっていることは否定できない。本書の「主人公」である著者がその場に居たのなら――おそらく全身全霊をもって戦った敵の一つとなったであろう。
日本においてアフリカという地域は、どうしても後進国であるという偏見を持ってしまう。また、現実として経済的に発展途上の段階であるのは否定できない。しかし、その渦中に身を置いて戦った日本人が居たということは決して忘れてはならないし、ぼくらもその身になって考える習慣を持つ必要があると思う。
ここまでは、マジメな話でちょっと余談としてヨタ話を。
本書は1972年に初版が発行されて長らく絶版となっていた。ところが、2009年にその後の民族紛争を増補し再版された。この時に企画協力をしたところがふるっているのだ。
なんと、TRPGで有名な冒険企画局というところなのだ。ぼく自身、ここの「サタスペ」というゲームが凄い好きでここのイラストを多数提供している速水螺旋人さんを追っかけているわけなのだが、まさか関わっているとは全く知らなかった。こんな比較的お堅いテーマの本にあの「サタスペ」のところが! というのは何とも痛快ではないか。この事実を知ったとき、思わず爆笑してしまった。
そういう意味ではTRPGのゲーマーも一つのゲームのリプレイ――そうだな、バナナ共和国を立て直すなんてゲームなんかどうだろう――を見る感覚で読んでいただければ、大変によろしいかと思う次第。

まえがき
Ⅰ 国際通貨基金からの誘い
Ⅱ ヨーロッパと隣国と
Ⅲ 経済の応急処置
Ⅳ 経済再建計画の答申
Ⅴ 通貨改革実施の準備
Ⅵ 通貨改革の実施とその成果
Ⅶ 安定から発展へ
Ⅷ ルワンダを去る
<増補1> ルワンダ動乱は正しく伝えられているか
<増補2> 「現場の人」の開発援助哲学 大西義久
関係略年表

南ア共和国の内幕 増補改訂版(伊藤正孝/中公新書)


「アパルトヘイト」ということばを知っているだろうか? 近現代史が大学入試においてあまり扱われない(扱われたとしても東西冷戦構造を中心とした歴史が中心になる)ことから、もしかすると知らない人もいるのかもしれない。南アフリカ共和国において行われてきた人種隔離政策のことだ。今の時代に勉強している若い世代にはもしかしたらピンとこないかもしれない。でも、これはれっきとした歴史的事実なのだ。山川出版の世界史B用語集には、こうある。

アパルトヘイト apartheid ⑨ 南アフリカ連邦成立時からとられた白人優位の人種差別と人種隔離政策。南アフリカ共和国に継承された。
南アフリカ共和国で、少数(16%)の白人が、大多数(84%)の非白人を支配・差別した政策。イギリス自治領時代の南アフリカ連邦で1949~50年に強化された、有色人種差別と有色人種隔離政策のこと。人口登録法・集団地域法・先住民土地法の3法が中心となっていた。国際的圧力もあって84年頃からじょじょに改善され、91年にデクラーク政権によって撤廃された。

どうだろう。50代、60代の人には比較的「同時代」の出来事かもしれないが、それ以下の年代からすると「欠落しがちな歴史的事実」だと思う。実際、この用語をものごころついてからニュースやなんかで見聞きしたのはぼくの世代が最後だと思う。ぼく自身、小学校時代通っていた学習塾のニュース解説本や新聞やニュースで「アパルトヘイトの撤廃」ということを、大騒ぎしていたことを辛うじて記憶している。
さて、本書は今からさかのぼること四十余年、1970年に朝日新聞に掲載されたルポをまとめたものにその後のアパルトヘイトの撤廃後の出来事を加えたものになる。つまり、アパルトヘイト体制下のころの話が中心だ。このころの南アフリカは体制維持の為に人種差別問題を取り上げるような報道を厳しく制限していた。であるが故に著者と相棒のカメラマン横田紀一郎氏は文字通り命がけの取材をすることになる。そしてその課程で寛恕し難い差別にも出会う。今から考えれば信じ難いが、歴史的な事実としてあった話だ。そして、さらに信じられないことに、著者はアパルトヘイトの撤廃が行われるまである種の「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として南アフリカへの入国を拒否され続けてきた。
本書の中身については、敢えて深くは触れないでおく。何故ならアパルトヘイトについて知らないひとたちこそ、まっさらな状態でこのルポを読んで欲しいからだ。おそらく、書いてある内容に憤りを感じもするだろうし、昔はしょうがなかったんだというある種のエクスキューズ的な立場を取る人もいるだろう。ぼくはそれを否定するつもりはない。それぞれの受け取り方次第だと思う。所詮「アカイアサヒ」とバカにするような態度を取ったって別に構わない。それは、読み手の感性の問題だからだ。
ただ、ここに書かれている事実や著者の問題意識というものは歴史の一つとして絶対に知っておくべきことだと、ぼくは思う。今から思えば本当にくだらない、人種という根拠レスなシロモノによって、かくも無駄な労力とコストを支払い、それにより大多数のひとたちが抑圧されたということは、忘れてはならない事実だからだ。
ぼく自身は彼がとりあげた差別についての問題意識は現代において日本でも通用する話だと思っている。それは単に人種差別という問題にとどまらず、著者の云うような「元請と下請」「(経済的格差による)学歴格差」というような問題は一つの差別の構造として横たわっているからだ。
感性がすり減った(もしくは感性を磨く気のない)年寄りどもに薦める気はさらさらないが、瑞々しい感性を持った若い世代には是非とも読んで欲しい。

増補改訂版まえがき
再版まえがき

Ⅰ 黄色人種として
Ⅱ 現代の魔女狩
Ⅲ 暗闇のソウェト
Ⅳ 飢えるトランスカイ
Ⅴ 白より白く
Ⅵ 解放への道
Ⅶ 二十年ののち
参考文献
南アフリカ年表
索引

日本人のためのアフリカ入門(白戸圭一/ちくま新書)


アフリカといえばどのようなものを連想するだろうか。紛争? 飢餓? 貧困? 部族対立? 汚職や不正? たしかにこれらはアフリカという地域の一つの側面である。一時期コピペネタとして「ヨハネスブルグのガイドライン」なるものが流行った時期がある。今ではある意味ジャーゴンとして消化されているが、そこで述べられているヨハネスブルグというのは、それはそれは酷い街のように印象を受ける。ここにそれを引用してみよう。

 ・軍人上がりの8人なら大丈夫だろうと思っていたら同じような体格の
  20人に襲われた
 ・ユースから徒歩1分の路上で白人が頭から血を流して倒れていた
 ・足元がぐにゃりとしたのでござをめくってみると死体が転がっていた
 ・腕時計をした旅行者が襲撃され、目が覚めたら手首が切り落とされていた
 ・車で旅行者に突っ込んで倒れた、というか轢いた後から荷物とかを強奪する
 ・宿が強盗に襲撃され、女も「男も」全員レイプされた
 ・タクシーからショッピングセンターまでの10mの間に強盗に襲われた。
 ・バスに乗れば安全だろうと思ったら、バスの乗客が全員強盗だった
 ・女性の1/3がレイプ経験者。しかも処女交配がHIVを治すという都市伝説から
  「赤子ほど危ない」
 ・「そんな危険なわけがない」といって出て行った旅行者が5分後血まみれで
  戻ってきた
 ・「何も持たなければ襲われるわけがない」と手ぶらで出て行った旅行者が靴と
  服を盗まれ下着で戻ってきた
 ・最近流行っている犯罪は「石強盗」 石を手に持って旅行者に殴りかかるから
 ・中心駅から半径200mは強盗にあう確率が150%。一度襲われてまた襲われる確率が
  50%の意味
 ・ヨハネスブルグにおける殺人事件による死亡者は1日平均120人、
  うち約20人が外国人旅行者。

また、これもある種ジャーゴン的に消化されているが、一時期ジンバブエのハイパーインフレもネタになった。これがネタになる言論空間のなかでは、ジンバブエの愚かな政策を揶揄し嘲笑することをみな前提として、それぞれの持論を展開するという、ある種頭の痛くなるような構図が存在していた。
このようにアフリカというのは、日本人からすれば極度にネガティブなとらえ方をされている地域である。
一方で近年では資源をめぐって中国が活発に活動をしていることから、日本もバスに乗り遅れるなとばかりに外交を展開すべき、という意見もある。
本書はそんなアフリカという地域に対するネガティブな見方や一面的な見方を諌める一冊だ。
日本から見たアフリカというのは実の所「遠い国」であり、毎日新聞で特派員をやっていた著者も新聞紙面に記事を載せるべく悪戦苦闘していた。結果、そこで起きることは欧米で大々的に取り上げられた段階で記事になるという「後追い報道」である。本書を読んでいて特派員としての筆者の苦悩がよく伝わってくる。また「あいのり」のヤラセ疑惑について触れているところについては、日本サイドの上から目線に釈然としない筆者の心情に自然と感情移入してしまう。
実際の所、アフリカという地域全般を一言で切ってしまおうとすることは傲慢極まりないし、松本仁一のアフリカに関する著作を読んでいてもあまり適切ではないことは自明である。だが、現実的に(物理的にも、政治的にも)遠いことは事実であって、もどかしさを抱えながらも一括りにせざるを得ない部分がある。
じゃあ、どうすればいいのか? ここで一言で言えるほど簡単な問題じゃない。理想論を言えば、ひとりひとりが知識を備えるということなのだろうけども、世の中を見渡してみてもそれはあまり現実的ではないと思う。ただ、知識を得ようとする、実態を知ろうとする努力は必要なことは当然のことだ。ましてや、先述したコピペやネタをもって、ただただ嘲笑するような態度は賢明ではない……というかむしろ愚かだとぼくは思う。
本書がアフリカの現実を余すところなく紹介した一冊だとは言えない。残念ながら新書本らしい軽さがあることは否定できない。ただ、本書のような本、そして本書で紹介されているような本を読んで知識を得ることで、より懸命になろうとする態度こそが今のぼくたちにできる最大限の努力だし、知性というもののあらわれなのではないだろうか。

やや長めの「まえがき」

第1章 アフリカへの「まなざし」
 1 現代日本人の「アフリカ観」
 2 バラエティ番組の中のアフリカ
 3 食い違う番組と現地
 4 悪意なき「保護者」として

第2章 アフリカを伝える
 1 アフリカ報道への「不満」
 2 小国の内政がニュースになる時
 3 「部族対立」という罠

第3章 「新しいアフリカ」と日本
 1 「飢餓と貧困」の大陸?
 2 「新しいアフリカ」の出現
 3 国連安保理改革をめぐる思惑
 4 転機の対アフリカ外交

終章 「鏡」としてのアフリカ
 1 アフリカから学ぶことはあるか?
 2 「いじめ自殺」とアフリカ
 3 アフリカの「毒」

アフリカについて勉強したい人のための一〇冊
あとがき