伊達要一@とうきょうDD954の書棚と雑記

伊達要一の読んだ本の紹介と書評、それと雑記

詳説 世界史(世界史B 新課程版)(木村靖二、佐藤次高、岸本美緒/山川出版社)

 大学入試で求められる知識ーーわかりやすく言うならば試験科目と言い換えてもいいーーは、何故今の体系なのだろうか? 身も蓋もない言い方をしてしまえば、文部科学省の定めた高等学校教育の範疇に従っているだけなのだが、それにしてもいろいろな選択肢がある。英語、数学、理科、国語、そして地歴公民。さらに言えば、技術やら家庭、芸術、体育なんて科目も高等学校教育では扱う。それどころか、普通科では扱わないような科目、農業高校には畜産や工業高校には自動車、それに商業高校には簿記だって存在する。
 大学という場がただの職業予備校としての存在であれば、極論、体育試験をやって体力の無い連中を切り捨てた上で、実務に直結するような科目を試験にするという判断だって、あってもおかしくはない。
 だが、現実的には大まかに次のような分類になっている。

 ・英語・数学・理科・国語・地歴公民の組み合わせ(国公立大学や一部私立大学の理系に多いパターン)
 ・英語・国語・地歴公民の組み合わせ(私立大学の文系学部に多いパターン)
 ・英語・数学・理科の組み合わせのパターン(私立大学の理系学部に多いパターン)

 何故、大学はこれらの科目を試験において課すのだろうか? 一つの思考実験として考察してみたい。

 例えば、英語。大学において英語の文献を読みこなすことは、殆どの学問領域において求められる。よって、試験でその能力を課すことには必然性がある。
 国語も同様。文献を読み解く能力というのは、ある一定以上の日本語読解力が求められるし、さらにいえば膨大な文献を読み解くある種の「体力」が必要となる。数学や理科については言うまでもないだろう。理系分野においてはこれらの基礎知識が無いと話にならない。
 では、地歴公民というのは何故必要なのだろうか? 高等学校で扱うような内容というのは、極論すれば大学教育の基礎となるようなものではない。何故ならば、大学において扱う領域というのは個々の分野を深堀したものであって、高等学校教育の地歴公民で扱うような「広く浅く」という知識が求められるものではない。
 しかし、私はこの分野の知識は最低限必要だと考える。それは「教養」として必要だ、ということである。何かしらの問題(課題)を論ずるにあたって共有すべき情報というのは存在して、それを世間では「教養」と呼ぶ。
 例えば、システム領域で言えばAPIのようなものだし、オタク的に言えば東方Projectをやっていると、色々なこと(例えば音楽系二次創作を楽しめるとか)を楽しめるというようなものだ。つまり、物事にアプローチするための共通基盤として存在するものだと考える。

 さて、前置きが長くなったが今回はそういった前提を理解した上で、「詳説 世界史B」(/山川出版社)を取り上げたい。山川の日本史や世界史の教科書といえば、大学入試の世界ではデファクトスタンダードと言って過言ではない。つまり、大学で求められる歴史分野の「教養」として共通に求められる内容を収載したもの、と言える。そういった意味では読んで損となるものではないだろう。
 むろん手放しで評価するわけにはいかない。教科書として漏れなく記述するという前提がある以上、各地域史を一定の区切りで述べるという形態の繰り返しである(物凄く乱暴に言えばアミダくじみたいな感じね)。歴史を学ぶ上で必要になってくる地域内の歴史的つながり(タテのつながり)や同時代の地域間のつながり(ヨコのつながり)という観点では非常にわかりにくいものになっている。これは、大学受験という観点でも非常に不便であって正直どうにかならんもんかと昔から思っていたが未だにここは改善されるフシが無い。
 また、あくまでも通史なので個別の論点については非常に弱い。例えば古代で言えばローマにおけるある皇帝の所行だとかそういったことはサラッと触れられているに過ぎない。大学受験の実態では予備校講師や高校教員がひとくさり語ることを覚えるとか、本書の教員向けガイドに近い「詳説 世界史研究」を読みながら対策する、はたまた用語集と年表と地図帳を首っ引きで勉強するなんて力業で対応していたりするのだが。

 ところで、世界史や日本史の教科書は以前日垣隆が著書の中で「レファ本」という概念で紹介している。この概念の中で紹介している本について、ぼくの中でも賛否色々あるのだけど、本書については日垣に同意だ。どちらかと言えば通読する本ではなくて、興味があること、調べなければならないことを辞書的に引くというスタイルが一番便利だと思う。これは日垣が述べるような自己啓発、ビジネス本的な教養だけではなくて、もっと卑近なこと、ゲームや小説の中での興味でも有効だ。これは歴史をテーマにしたものじゃなくてもいい。例えばファンタジーもののTRPGをやっているなら、中世世界を調べて世界観の説得力を強めるなんてスタイルなんてのが真っ先に考えられる。

 とかく歴史というと生臭いシロモノになりがちである。そんなくだらないことは忘れよう。歴史はぼくらが人生を楽しむためのAPIなんだ。本書はそんな人生という言語をより素晴らしいものにする優れたレファレンスであると思う。

 ちなみに身も蓋も無いが、Amazonで購入することはオススメしない。教科書を取り扱う書店を探してそこで購入しましょう。だいたい1000円もしないで買えます。

ルワンダ中央銀行総裁日記 増補版(服部正也/中公新書)


物語というものにはいくつかの定型――テンプレート的なものがある。その中でも、ボロボロになった組織を立て直しハッピーエンドというものは色んな媒体で書かれている。一般的な中間小説もそうだし、オジサン向けの企業小説はおろかライトノベルでも(若干アレンジはされているけど)扱われている。
本書は名著として知られている一冊だ。だが、単純にそういった先入観で読むよりもむしろこういった「物語」の一つとして読む方が楽しめる。
本書で描かれているルワンダは、独立後の混乱からシッチャカメッチャカの状態だった。旧宗主国のベルギー人はタチ悪く振る舞い、ルワンダ人に偏見の目を向けながら暴利をむさぼる。政府の保有する外貨は底を尽き、中央銀行は業務をよく知らない連中ばっかり。挙句の果てに「主人公」である著者が赴任するときに援助の対価として通貨の切り下げまでIMFに要求される始末。ありていに言ってしまえばどん底の状態だ。
そんなどん底から「主人公」がどのように戦っていくのかは本書を是非読んでほしい。扱われている内容は中央銀行の業務を越えて、一国の経済を立て直す方策まで含まれており極めて小説的に楽しめる。内容もとても平易なものだ。「中央銀行のあるべき姿」という所について本書を通じて論考している向きもあるが、もちろんそれは否定しない。だけど一人の「主人公」が組織を立て直していくという「物語」としてとらえても十分に楽しめるものになっているとぼくは思う。
さて、この物語であるが決してハッピーエンドにはなっていない。皆様もご存じの通り、ルワンダにおける民族対立によって民族虐殺――ジェノサイドが行われ悲惨な状況に陥ったのだ。事実、本書の増補として著者本人によるこの紛争についての論考が載っており、本来「ハッピーエンド」で終わるはずの物語が苦いものになってしまった悲しみに満ち溢れていると言える。
だが、国というものは決して単なる物語によるものではなく、延々と続く現実の延長線上に存在する。そういった意味では、この苦い出来事も一つの現実であり受け入れなければならない。逆に言えば、この民族虐殺の出来事という点を延々と引きずることで塗炭の苦しみを続けるようなことがあってはならないのである。
ルワンダの紛争についてかつて宮嶋茂樹さんがルポルタージュしているのだが、彼はその中でルワンダについてボロクソに書いている。確かに当時のルワンダの現状の一つではあるのだろう。実際に現地で取材した人物の書いていることは、それはそれで一つの事実ではある。しかし、そこにある種の偏見が混じっていることは否定できない。本書の「主人公」である著者がその場に居たのなら――おそらく全身全霊をもって戦った敵の一つとなったであろう。
日本においてアフリカという地域は、どうしても後進国であるという偏見を持ってしまう。また、現実として経済的に発展途上の段階であるのは否定できない。しかし、その渦中に身を置いて戦った日本人が居たということは決して忘れてはならないし、ぼくらもその身になって考える習慣を持つ必要があると思う。
ここまでは、マジメな話でちょっと余談としてヨタ話を。
本書は1972年に初版が発行されて長らく絶版となっていた。ところが、2009年にその後の民族紛争を増補し再版された。この時に企画協力をしたところがふるっているのだ。
なんと、TRPGで有名な冒険企画局というところなのだ。ぼく自身、ここの「サタスペ」というゲームが凄い好きでここのイラストを多数提供している速水螺旋人さんを追っかけているわけなのだが、まさか関わっているとは全く知らなかった。こんな比較的お堅いテーマの本にあの「サタスペ」のところが! というのは何とも痛快ではないか。この事実を知ったとき、思わず爆笑してしまった。
そういう意味ではTRPGのゲーマーも一つのゲームのリプレイ――そうだな、バナナ共和国を立て直すなんてゲームなんかどうだろう――を見る感覚で読んでいただければ、大変によろしいかと思う次第。

まえがき
Ⅰ 国際通貨基金からの誘い
Ⅱ ヨーロッパと隣国と
Ⅲ 経済の応急処置
Ⅳ 経済再建計画の答申
Ⅴ 通貨改革実施の準備
Ⅵ 通貨改革の実施とその成果
Ⅶ 安定から発展へ
Ⅷ ルワンダを去る
<増補1> ルワンダ動乱は正しく伝えられているか
<増補2> 「現場の人」の開発援助哲学 大西義久
関係略年表

南ア共和国の内幕 増補改訂版(伊藤正孝/中公新書)


「アパルトヘイト」ということばを知っているだろうか? 近現代史が大学入試においてあまり扱われない(扱われたとしても東西冷戦構造を中心とした歴史が中心になる)ことから、もしかすると知らない人もいるのかもしれない。南アフリカ共和国において行われてきた人種隔離政策のことだ。今の時代に勉強している若い世代にはもしかしたらピンとこないかもしれない。でも、これはれっきとした歴史的事実なのだ。山川出版の世界史B用語集には、こうある。

アパルトヘイト apartheid ⑨ 南アフリカ連邦成立時からとられた白人優位の人種差別と人種隔離政策。南アフリカ共和国に継承された。
南アフリカ共和国で、少数(16%)の白人が、大多数(84%)の非白人を支配・差別した政策。イギリス自治領時代の南アフリカ連邦で1949~50年に強化された、有色人種差別と有色人種隔離政策のこと。人口登録法・集団地域法・先住民土地法の3法が中心となっていた。国際的圧力もあって84年頃からじょじょに改善され、91年にデクラーク政権によって撤廃された。

どうだろう。50代、60代の人には比較的「同時代」の出来事かもしれないが、それ以下の年代からすると「欠落しがちな歴史的事実」だと思う。実際、この用語をものごころついてからニュースやなんかで見聞きしたのはぼくの世代が最後だと思う。ぼく自身、小学校時代通っていた学習塾のニュース解説本や新聞やニュースで「アパルトヘイトの撤廃」ということを、大騒ぎしていたことを辛うじて記憶している。
さて、本書は今からさかのぼること四十余年、1970年に朝日新聞に掲載されたルポをまとめたものにその後のアパルトヘイトの撤廃後の出来事を加えたものになる。つまり、アパルトヘイト体制下のころの話が中心だ。このころの南アフリカは体制維持の為に人種差別問題を取り上げるような報道を厳しく制限していた。であるが故に著者と相棒のカメラマン横田紀一郎氏は文字通り命がけの取材をすることになる。そしてその課程で寛恕し難い差別にも出会う。今から考えれば信じ難いが、歴史的な事実としてあった話だ。そして、さらに信じられないことに、著者はアパルトヘイトの撤廃が行われるまである種の「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」として南アフリカへの入国を拒否され続けてきた。
本書の中身については、敢えて深くは触れないでおく。何故ならアパルトヘイトについて知らないひとたちこそ、まっさらな状態でこのルポを読んで欲しいからだ。おそらく、書いてある内容に憤りを感じもするだろうし、昔はしょうがなかったんだというある種のエクスキューズ的な立場を取る人もいるだろう。ぼくはそれを否定するつもりはない。それぞれの受け取り方次第だと思う。所詮「アカイアサヒ」とバカにするような態度を取ったって別に構わない。それは、読み手の感性の問題だからだ。
ただ、ここに書かれている事実や著者の問題意識というものは歴史の一つとして絶対に知っておくべきことだと、ぼくは思う。今から思えば本当にくだらない、人種という根拠レスなシロモノによって、かくも無駄な労力とコストを支払い、それにより大多数のひとたちが抑圧されたということは、忘れてはならない事実だからだ。
ぼく自身は彼がとりあげた差別についての問題意識は現代において日本でも通用する話だと思っている。それは単に人種差別という問題にとどまらず、著者の云うような「元請と下請」「(経済的格差による)学歴格差」というような問題は一つの差別の構造として横たわっているからだ。
感性がすり減った(もしくは感性を磨く気のない)年寄りどもに薦める気はさらさらないが、瑞々しい感性を持った若い世代には是非とも読んで欲しい。

増補改訂版まえがき
再版まえがき

Ⅰ 黄色人種として
Ⅱ 現代の魔女狩
Ⅲ 暗闇のソウェト
Ⅳ 飢えるトランスカイ
Ⅴ 白より白く
Ⅵ 解放への道
Ⅶ 二十年ののち
参考文献
南アフリカ年表
索引

時刻表昭和史(宮脇俊三/角川文庫)


存外、個人の人生というものは鉄道の動きに合わせたものなのかもしれない。最近ふとそんなことを思うようになってきた。
なんとなれば、ぼく自身も小学校に上がるまでは「電車」に乗ることが特別な出来事であった。それは実家のマイカーで移動することが多かったというのもあるが、わざわざ幼少の者が鉄道で移動するという機会があまりに少なかったということがある。小学校に上がり塾に通いだすと、最寄駅と塾のある駅まで小田急線を使うようになった。ほんの数駅ではあったが、とりわけ帰宅ラッシュと重なる帰路は今まで見たことのない世界を垣間見ることとなった。ただ、ぼくにとっての日常としての鉄道――小田急線から離れてJRや他社線に乗ることは滅多に無かった(実の所、塾の講座の関係上当時としては超長距離を移動していたときもあったが)。ただ、今でも覚えているのが、地下鉄千代田線に乗ったときのことである。今でもそうだが地下鉄には何というか特有の重苦しさがあって、それに辟易したのを覚えている。
そして、中学・高校と越境通学をしていたころになると、今度はその辟易した地下鉄千代田線に毎日のように乗ることになった。朝の通学時間は通勤ラッシュの少し前であったが、複々線化事業がようやく始まろうとしている当時の小田急線は地獄のようなラッシュでありよくもまあ通えたものだと今でも思っているが、当時もそれなりに体格が良く通学にあたってもそれほど支障が無かったというのが実情だったのかもしれない。このころから、鉄道は日常と非・日常の境界の曖昧模糊としたものになっていった。親からの小遣いでそうそう遊び歩くわけにもいかず繁華街をうろつくことは無かったものの、友人の住む家に遊びに行ったりするのに定期券を乗り越して些少の金を小遣いから出していた。日常の範囲を飛び越え非・日常の世界をぶらついていたのである。
大学になるとその曖昧模糊としたものがさらに広がる。鉄道会社でアルバイト駅員をやっていたからだ。さらに、鉄道趣味にややのめりこんでいたこともあり、この時期のぼくにとっての鉄道は、日常でもあり非・日常でもありとまさに鵺のような存在であった。
長じて社会人になると、今度は出張で非日常の頂点であった長距離列車を使うことが日常茶飯事となり、ますますよくわからない存在になっていった。
このように、ごくごくつまらないぼくのような存在であっても、鉄道と人生がなんとなれば切っても切れない関係にある。況や鉄道紀行作家として名高い宮脇さんにおいてをや、である。本書は、その宮脇俊三さんの幼少期から青年期にかけての人生と鉄道をクロスオーバーさせた紀行文であり個人史である。
鉄道についての話というのはどうしても業界――いわゆる鉄道趣味者か鉄道会社勤務者の内輪的な話に終始してしまうことが多いのだが、宮脇さんの鉄道紀行文はそのいずれかのものではない。いや、宮脇さん自身が鉄道趣味者であるしある面では趣味者に向けたものではあるのだが、その名文はそれ以外の一般人に取っても読む価値がある格調高いものである。どうしても趣味者が手に取ることが多いこともあり、その中で今の鉄道旅行の話ではない本作は比較的売上が振るわなかったそうであるが、ぼくは宮脇さんの本の中で一番読むべき一冊だと思っている。
幼少期の鉄道についての思い出――列車を眺めたり家族旅行の中で利用するという非日常としての鉄道、青年期の鉄道についての思い出――見たいものを見るために様々な手段を用いて戦中のあの時代に利用した鉄道。どの話を見ても、その時代の空気がありありと伝わってくる。
おそらく色々な書評で取り上げられているであろう、第13章の米坂線の描写は必読である。日本の時が止まったとき――すなわち1945年8月15日正午、玉音放送。時は止まっていたが汽車は走っていた。列車は時刻表通りに走っていた。このくだりは是非読んでほしい。歴史上の出来事という点は実は無限の時の平面の中の一点であり、鉄道という時と空間をまたがり二点間をつなぐ乗り物は、その制約を乗り越え何事も無かったかのように――日常を維持するために動いていたのである。
歴史好き、ミリタリ好きにとどまらず、いろんな人に読んでほしい一冊。幸い角川から絶版されたという話も聞かないし、それほど入手は困難ではないだろう。是非一度手に取ってほしい。

第1章 山手線――昭和8年
第2章 特急「燕」「富士」「櫻」――昭和9年
第3章 急行5列車下関行――昭和10年
第4章 不定期231列車横浜港行――昭和12年
第5章 急行701列車新潟行――昭和12年
第6章 御殿場線907列車――昭和14年
第7章 急行601列車信越本線経由大阪行――昭和16年
第8章 急行1列車稚内桟橋行――昭和17年
第9章 第1種急行1列車博多行――昭和19年
第10章 上越線701列車――昭和19年
第11章 809列車熱海行――昭和20年
第12章 上越線723列車――昭和20年
第13章 米坂線109列車――昭和20年

略年表
参考図書
あとがき
解説 奥野健男

シビリアンの戦争(三浦瑠麗/岩波書店)


いきなりで恐縮だが、ぼくはドイツ参謀本部のような歪んだプロフェッショナリズムというものが大嫌いだ。ドイツがあんなグチャグチャになったのも、極論を言えば彼らの歪んだプロフェッショナリズムがドイツという国家を自爆に導いたと思っている。同様に日本における旧陸海軍も同じ穴のムジナだ。そういう意味では文民統制(シビリアン・コントロール)というものは重要だし、議会や民主的に選ばれた政権によって軍事行動は制御されるべきだと思っている。
しかし、本書はその考えに対して驚くべき指摘をしている。戦争はむしろ当事者意識の無い文民によって引き起こされるものだ、と。所謂通論で言えば、これは荒唐無稽なものと言ってしまっても過言ではない。先述したように、軍というものは文民による制御が無ければ勝手に戦争を引き起こして国民に迷惑をかける、というのが世間一般の共通認識だからだ。だが、本書の丹念な研究はそういった通論を打ち砕く。民主的に選ばれたはずの政権が戦争についての当事者意識もコスト意識も無く、戦争を引き起こし多大な犠牲とコストをもたらすのだ、と。事実、本書で指摘されたような戦争――クリミア戦争やレバノン戦争、それにフォークランド紛争、イラク戦争――が遂行される過程において、文民の方がイケイケドンドン(これは政権や議会だけではなく国民もだ!)で軍や官僚たちプロフェッショナルどもの方が抑制的だったのだ。
実際、レバノン紛争の当事者であるイスラエルでは、軍人たちによる平和団体「ピース・ナウ」というものがあったりするし、イラク戦争では退役した軍人たちによる批判も数多く出ている。本書で述べられている中でも、クリミア戦争では戦争そのものに批判的だった軍人が戦後責任を押し付けられて更迭されたりなんぞしている。
ぼくらが認識していた文民統制というものは、実は間違った考えなんだろうか? 実は軍のことは軍に任せるという方がよっぽどいいんじゃないだろうか?
ぼくはそうは思わない。プロフェッショナルはもちろんその分野ではとても有用なものだし、本書で記述されているような戦争に対する批判という点においてその能力を発揮した見解だと思う。だけど、それに任せるということが果たして本当に良いことなんだろうか? にわかにはこの疑問についての解答は導き出せないけども、プロフェッショナル任せということが国民にとって良いこととはぼくは思わない。
むしろ批判されるべきは、当事者意識を持たないぼくらの方にあるんじゃなかろうか? 若干身内批判になるので言いたくはないけども、威勢のいい意見に引っ張られる向きが結構見受けられるのだが、それによって払う犠牲(これは人命もそうだしコストだってそうだ)についてどれだけ考えているんだろうか? むしろ「なんとなく」で威勢のいいことを言って、反戦団体(彼らにも批判されるべき側面があるのは事実だけど)叩きをすればいいというある種の自己満足にひたってないだろうか?
本書はそういうことを考えるきっかけとしては適切なものだと思う。無論、本書が完璧なものだとは言えない。山形浩生さんの書評でも触れているけども「軍人のほうが反戦的という主張は、ひょっとしたら成り立たないかもしれない」という問題はあるし、シビリアンによる戦争ということを研究するにおいて、もっと触れるべき戦争(たとえばわかりやすい所ではベトナム戦争だ)があるはずだ。ただ、あくまでも考えるべき当事者はぼくたち国民ひとりひとりなわけで、そうそうたやすく「プロフェッショナル」に任せきりというわけにもいかないと思う。だからこそ、本書を一読して考えてみるべきではないかと、ぼくはそう思う。

余談
先に触れた山形浩生さんの書評の中で中国について触れていたけども、どちらかといえば中国の場合中南海のエリート層と軍である種の当事者意識の齟齬があるんじゃないかと思う。特に人民解放軍がらみの話題というのは、本当に表に出てこないので見えない部分があるのだけども、実際に指揮を執る側からしたら政権の当事者意識の無さに色々ともどかしさを感じている連中はいるのではないかと勝手に思っている。むしろ、こういった研究で言うならば北朝鮮とかで考えてみた方がしっくりくるんじゃないかと思う(あそこも必ずしも政権と軍の関係がガッチリというわけじゃないけど)。

略語表

第I部 軍、シビリアン、政治体制と戦争
 第一章 軍とシビリアニズムに対する誤解
 第二章 シビリアンの戦争の歴史的位置付け
 第三章 デモクラシーによる戦争の比較分析

第II部 シビリアンの戦争の四つの事例
 第四章 イギリスのクリミア戦争
 第五章 イスラエルの第一次・第二次レバノン戦争
 第六章 イギリスのフォークランド紛争

第III部 アメリカのイラク戦争
 第七章 イラク戦争開戦に至る過程
 第八章 占領政策の失敗と泥沼
 第九章 戦争推進・反対勢力のそれぞれの動機

終部 シビリアンの正義と打算
 第一〇章 浮かび上がる政府と軍の動機
 終章 デモクラシーにおける痛みの不均衡

用語解説
あとがき
引用・参照文献

登場人物一覧